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最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子さん■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

2018/05/05 14:48 投稿

コメント:5

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  • 小佐野景浩
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プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子です! 




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――
小佐野さんは馬場元子さんの訃報をどのタイミングで知ったんですか?

小佐野
 私は全然知らなかった。『Gスピリッツ』編集部からの電話で『東スポ』のウェブに元子さんの記事が載っていることを初めて知ったんですよ。

――
小佐野さんが知らないとなると、近親者以外は誰も……。

小佐野
 おそらく渕(正信)さんや和田京平さんさえも知らなかったと思う。告別式とかすべて終わった段階で『東スポ』に連絡したんじゃないかな。おそらく全日本プロレスがチャンピオンカーニバル中だったという配慮もあったんだろうね。

――
馬場さんが立ち上げた全日本プロレスを最後まで気にかけていたということではありますねぇ。

小佐野
 あくまで私の推測ですけどね。どこにも知らせないわけにはいかないから、時期を見て『東スポ』さんに報道してもらいなさい……という流れだったんじゃないかと。

――
元子さんと最後にお会いになったのはいつだったんですか?

小佐野
 それは去年の1月23日、元子さんの喜寿のお祝いです。

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喜寿の会での元子さん。ハワイ好きの元子さんのためにハワイアンな雰囲気に


小佐野 元子さんの体調はあまりよくなかったということで、元子さんを元気づけようという趣旨もあってね。入院されていたこともあって、電話でしゃべれる機会はここ1年はなかった。私も元子さんもハワイ好きなので、ウチの家内が作ったフラワーレイを時々送ったりはしていて、そのお礼のメールが元子さんの姪御さんを通じて送られてきたり、昨年末には元子さんからハガキをもらったりはしてたけど。

――
訃報を聞いたときはどう思われました?

小佐野
 やっぱりショックだった。元子さんには取材抜きにして、ずっとお世話になっていたから。元子さんはもうプロレス界の方ではないし、ここ最近は個人的な付き合いをさせてもらっていたので、知り合いの方がお亡くなりになったという寂しさですよね……。

――
小佐野さんと元子さんのお付き合いは相当長いですが、初めてお会いしたのはいつなんですか?

小佐野
 1980年、私が大学1年のときに『月刊ゴング』でアルバイトを始めたんだけど、そのときに竹内(宏介、当時『月刊ゴング』編集長)さんに全日本の会場で「馬場さんの奥さん」として紹介されて。もう驚きましたよ。その当時、馬場さんが結婚していたなんてことは公にはされてなかったから。

――
噂にもなってなかったんですか?

小佐野
 何も知らなかった。プロレス界の中で隠してるわけでもなかったけど、わざわざ記事にする人もいなかった。プロレス業界の人はみんな知っていて、みんな馬場さんの奥さんとして接してるんだけど、世間には知らされてないだけ。公表されたのは82年の夏のことだから。

――
小佐野さんが『月刊ゴング』でバイトを始めた2年もあとですね。

小佐野
 馬場さんと元子さんはもともと1971年にハワイで結婚式を挙げてるんですよ。それからは一緒には住んでいるし、元子さんは巡業もついて回っていた。これは聞いた話だけど、ハワイで結婚式を挙げたときにある週刊誌にスクープされそうになった。でも入籍はしてない。そこは元子さん側の親の反対とかいろいろな理由があったみたいで。

――
だから結婚式だけで籍は入れなかったんですね。

小佐野
 だからその週刊誌には「記事にはしないでくれ。入籍したら記事にしていい」という話をして。そこの編集長は了解してくれて、その週刊誌の編集長が馬場さんとの約束を代々受け継いで、82年に入籍したときに「じゃあ書きますよ」と。そうなったら馬場さんもダメだとは言えない。

――
それで元子さんの存在を公表することになったんですね。

小佐野
 82年の七夕の日に、馬場さん1人で記者会見をやって結婚してることを明かしたんですよ。

――
七夕に!(笑)。それまで世間的には馬場さんは独身として通ってたわけですよね。

小佐野
 私だって馬場さんは独身だと思ってたくらいだからね。当時の私は18歳、元子さんは40歳、馬場さんは42歳ですよ。それから『ゴング』が週刊化されて、私は全日本プロレスの担当記者になったんだけど。広報の担当はいるんだけど、重要な取材のゴーサインを出すのは元子さんだった。

――
その若さで馬場夫妻と向き合うのは大変だったんじゃないですか?

小佐野
 巷でも言われてることだけども、元子さんは厳しい方だったからね。こっちも血気盛んなだから当然ぶつかるし。元子さん「これはなぜダメなんですか?」って聞いたら「私がイヤだからよ!」って言われてね(笑)。

――
ハハハハハハハ!

小佐野
 「それじゃあ話にならないですよ!」なんて食い下がってね。そんな会話の繰り返しですよ。マスコミの中には元子さんが苦手だっていう人が多かった。私も何度かケンカしながらこうして最後まで付き合えたのは、何かあっても後に残らなかったからだと思う。元子さんもガーッと言うけども忘れちゃうし、私もあまり気にしない。何か言われたからといって元子さんのことが嫌いにはならなかった。

――受け止められる小佐野さんが凄いですね(笑)。

小佐野
 私は子供でまだ若かったから反論してケンカになっちゃうんですよ。「おかしいですよ!」「ダメなものはダメ!」なんてやってるうちに笑い話になっちゃうから(笑)。

――
その「ダメなものはダメ!」は元子さんの感性による判断なんですかね?

小佐野
 元子さんには「悪意を持って馬場さんのことを書かれたくない」という気持ちが強かった。馬場さんにインタビューするときも悪意を持って質問しないでほしいと。80年代前半、全日本と仲の悪かった『週プロ』は、聞き手がフリーの菊池孝さんじゃないと馬場さんインタビューができなかったから。『週プロ』の記者だとダメ。

――
菊地さんは昔からの付き合いで信頼できたってことですね。原稿チェックも厳しかったんですか?

小佐野
 原稿チェックはなかった。あの当時は誰も原稿チェックしなかったんですよ。

――
記者にお任せだったからこそ、馬場さんを理解してるマスコミを選んでいたところはあるんでしょうね。

小佐野
 そういうニュアンスでしゃべっていないのに、曲解されて書かれたりすることはあるでしょ。元子さんは馬場さんに限らず全日本プロレス所属選手全員のことをそうやって気にしてたんだよね。『ゴング』も時には信頼され、時には抗議され(笑)。

――
『ゴング』の記事にも目を光らせてるんですね。

小佐野
 こっちだってなるべく刺激的な発言が欲しいわけでしょ。誇張もしないけど、削る気もないから。たとえば天龍同盟の頃の天龍さんは平気でいろんなことをしゃべるんですよ。こっちが面白がって載せると、元子さんはピリピリする。

――
当時の全日本は新日本と比べてスキャンダル性に欠けていたから、はみ出した発言なんかがないと表紙や巻頭カラーは取れなかったそうですね。

小佐野
 天龍さんとスタン・ハンセンがタッグを結成する直前の頃、何もネタがないからキャピタル東急まで馬場さんに会いに行ったんだよ。

――
馬場さんはキャピタルのレストラン「オリガミ」が行きつけだったんですよね。

小佐野
 そこで私は馬場さんに「この流れからすれば天龍さんとハンセンがタッグを組むしかないですよね? そういう書いていいですか?」と聞いたら「好きに書いていい」と。『ゴング』でそう書いたら実際にタッグを結成することになったんだよ。そうしたら、その頃の馬場さんのブレーンだったターザン山本さん(当時『週刊プロレス』編集長)が怒ったみたいなんだよね。

――
自分が馬場さんのブレーンをやってるのに、ライバル誌にスクープされるのが許せなかったんでしょうね(笑)。 

小佐野
 馬場さんからキャピタルに呼び出されて「なんでこんな記事を書いたんだ?」と怒られてね。でも、そのときは元子さんは私の味方になってくれた。「馬場さんはあのとき好きに書いていいと言ったでしょ。これは馬場さんが悪い」と。そこは筋を通してくれたんですよ。

――
元子さんはそういうときに馬場さんの味方をするというイメージがありますね。

小佐野
 そういうわけじゃないんだよね。曲解して書かれるのがイヤなだけであってね。ちゃんと書いてくれれば問題ない。それでも元子さんには何度か怒られたことはあったし、取材拒否されたこともあった。それは全日本の許可なく天龍さんを連れ出して、藤波さんと対談させたことなんだよね。

――
許可なく対談やったら怒られますよ!(笑)。

小佐野
 絶対に問題になるよ(笑)。私も会社に「勝手にやったら絶対にマズイですよ!」と言ったんだけどね。会社は「いいからやれ」と。仕方なく対談を組んだら「小佐野が勝手にやった」ということになっちゃったんですよね(笑)。

――
ハハハハハハ!

小佐野
 それで『ゴング』としては取材できるけど、私個人は全日本を取材拒否。「ジャイアント馬場」の名前が入った手紙が届いて「小佐野景浩を取材拒否にする。全日本プロレス担当記者から更迭を求める」と。そうしたら元子さんから電話があってキャピタルに呼び出されたんですよ。馬場さんは「オマエ一人でこんな勝手をやるわけないよな?」と。

――
普通はそう思いますよね。

小佐野
 私は「そう思っていただけるのは大変嬉しいんですけども、会社員なので言えません」と(笑)。その時点では馬場さんと私の中では手打ちになってるんだけど、取材拒否を解くタイミングがあるから。落とし所は馬場さんの誕生日。取材拒否とは言っても控室に入れないだけで会場に潜り込めたんですよ。そうしたら「馬場さんが控室に呼んでるよ」ということで行ってみたら「今日からいいよ。俺の誕生日だから」と。

――
「誕生日恩赦」ですか(笑)。


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コメント

>>2
いや、マジ。編集者の能力云々は別として、ターザンはマジでロクデナシ。取材対象者にメシや小遣いをたかれるなんて、どういう精神構造をしてるのか。

No.4 79ヶ月前

改めて見返すと本当にいい記事ですね。
暖かくてしんみりします。

No.5 69ヶ月前

ホントにター山はクズ!そして今ものうのうと生きてるのにむかっ腹が立つ!

No.6 67ヶ月前
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