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総合格闘技のパイオニア修斗の隠された歴史を克明に語る“奇人”朝日昇ロングインタビュー。創始者・佐山聡の離脱から体制を揺るがした運営告発問題まで、タブーとなっている修斗灰色の過去を25000字で振り返ってもらった(聞き手/ジャン斉藤)


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――
いまから8年前の2010年のことです。朝日さんは修斗の運営体制を告発されて大きな騒動になりましたが、最近あらためて当時のことを振り返っていると聞きつけまして飛んで来ました!

朝日
 振り返ってなんかないですよ(笑)。

――
あら、そうなんですか。

朝日
 いまの若い子はボクがあのとき中指を立てられたとか知らないでしょうし(https://www.youtube.com/watch?v=L9sEIh4HbVM)、どうでもいいです。その動画もネットに上がってますが(笑)、いまだにいろいろと尋ねられることもあるので、そうした際には実際に何があったのかという事実を説明することはあります。修斗というものをすべて否定してるわけでもありませんが、歴史は歪曲することなく、何事も事実は事実としてキチンと伝えなくてはなりませんよね。そうすることにより、いま頑張っている人たちをより良い方向に導けますからね。そのうえで誰かのアンテナに引っかかるかな……と思っていたらジャンさんでしたね(笑)。けど、こんな話、いまさら知りたいですか?

――
凄く興味があります! ボクはシューティング時代から修斗は大好きだったんですけど、いつからか「あれ? 修斗ってこんな感じだっけ……?」ってクエスチョンマークが出てきて。

朝日
 へえ、そこは逆に詳しく聞きたいですね。

――朝日さんが「修斗四天王」と呼ばれていた時期の前後ぐらいから何かが変わったなっていう。リング上でやっていることに変わりないんですけど。

朝日
 なるほど〜。言葉で表現するのは難しいかもしれないですが、そういう見方は、なんとな〜〜くわかります。正直携わっていたボクでさえ、そうした感じを抱いてはいたので。なんと言ったらいいんだろうなあ。

――
「2010年の修斗問題」も何が起きているのかはちゃんとはわからなかったのが正直なところで。

朝日
 やっぱりわかりづらいですよね。あの件については、あるインタビューで事の顛末を話したところ、「オマエはなんであんなことを話すんだ! 何がやりたいんだ!」と、当時修斗協会の浦田(昇)会長からは強く叱責もされましたが、浦田会長にさえ真実が伝えられていなかったのですから、仕方ありません。

――
あ、浦田会長にさえ。

朝日
 とにもかくにもムチャクチャなことが裏では繰り広げられていて、もうどうにもならなかったんです。だから、もうボクが悪人なら悪人でかまわないし、時間の無駄なので、ボクは修斗から完全に離れたんです。適切な表現方法を選択することが難しいですが、一部の人たちの言葉や行動が、なんの裏付けや調べもなく一方的に正しいと判断されたり、イメージするならば全体としておかしな新興宗教体のような様相を呈していたかもしれませんね。あるお題目に対して人が盲目になり、キチンと調べたり、考えたりすることを停止していたことは事実として存在しますし。誤解を恐れずに言いますと。

――
おかしな新興宗教体ですか……。

朝日
  世間の人たちは興味がないかもしれないですが、興味のある方々には歴史の事実を知っていただかねば、より良い判断は難しいですから、知りたい方々には、ボクはただ単に事実の説明をしました。野球やサッカーは多くの人間に見られる競技ですから、何か事件が起きれば報道されます。しかし、修斗の場合はさほど興味を持たれません。規模がまったく違いますから。2010年の問題の際にも、事態を憂いだある友人が一般雑誌の編集長に掛け合ったりもしてくれたのですが、向こう側からするとネタとして弱いようで記事にはなりませんでした。なので事実は報道されていません。格闘技のある雑誌には理解不明な書かれ方をされましたが、彼らを相手にしても時間の無駄ですから放っておきました(笑)。

ボクの話は一切聞くこともなく、一方の人間の話のみを聞き、それをただ鵜呑みにし、記事を書く。なぜあのような人たちがマスコミを名乗るのが不思議ですし、よくあんな記事が書けるなあと呆れましたが。2ちゃんねると変わりません、あの紙の束は(笑)。

――
個人的に「2010年の問題」は創始者の佐山聡さんが修斗を離れたことと繋がってるというようにも見えたんですね。佐山さんが修斗を離れたというか、追放されたというか。

朝日
 うーん、追放……そういう捉え方をされてしまうんですかねぇ(複雑な表情で)。

――
例えば修斗30周年という節目の興行に創始者の佐山さんが来場しなかったとか、あきらかに不自然だったじゃないですか。

朝日
 あれが「修斗伝承」です(笑)。疑問を抱いてはいけません! 信じるのです!(笑)。ボクも行きませんでしたが、なぜならまず理由の一つとしては、あの場に佐山聡がいないのならば何も始まらないからです。

――
なので今回は突っ込んだ話を聞きたいんですけど、まず90年代の修斗……シューティングと呼ばれていた時代から振り返りたいんですが、朝日さんはファイターとしてだけはなく、裏方としても関わっていらしたんですよね。

朝日
 関わっていたというより、佐山さんの許可のもとで、かなりの部分でボクが主導する形で動いていたと思います。証拠として、あの当時の名刺をいろいろとお持ちしました。ご覧になっていただけたらわかるように、ボクはずっと同じ場所にいるのに、組織の名称がドンドン変わっていったんです。

――
時系列ではどういう流れなんですか?

朝日
 一番古いのは三軒茶屋のスーパータイガージムですね。その次が木口道場、日本プロシューティング。ワールド修斗がもうできないということになり、イーフォース。

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木口道場時代

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スーパータイガージム大宮時代

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ワールド修斗時代

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イーフォース時代


朝日 三軒茶屋のジムには19歳で入ったんですが、入って1年目の途中ぐらいに「横浜の木口道場でもシューティングをやるから、誰か行く奴はいるか?」という話を聞いたんです。ボクは横浜に住んでいますし、大学までの通り道でしたから、田代(義治、港太郎)、伊藤裕二、草柳和宏の4人で移りました。しかし、他の連中は全然練習に来ないので(笑)、年柄年中、木口先生とマンツーマンでボッコボコにされまくりました。

――
世界最強の木口宣昭先生と(笑)。

朝日
 例えば木口トレーニングを1時間45分マンツーマンでやったあとに、15分スパーリングでボッコボコとか。とにかくボッコボコにされました(笑)。

――
さすが木口先生です!

朝日
 あの当時から修斗は例えば大会が終わるたびに皆で集まって会議を開いていました。佐山さんが議長のような立場で、出席していたのは桜田(直樹)さんや川口健次、坂本(一弘)、ボクなど初期のシューターですが、その頃先頭でいつもみんなを引っ張っていただいていたのが石川義将さんという先輩なんです。石川さんは唯一佐山さんに物が言える人でした。皆、石川さんを頼りにしていたと思います。

――
石川さんは初代シューターのリーダーだったんですね。

朝日
 はい。しかし、その石川さんは実家の仕事の関係で大阪に帰ることとなり、ひとまず修斗からいなくなる形となってしまったんです。そのあと石川さんがやられていた役割をボクが担うようになっていったんです。ボクは小さい頃から学級委員長を毎年やらされていたりして、そうしたことには慣れていましたし、根本的には”大きな運動会”をイメージしていました。

――
そこから運営に携わって。

朝日
 いまの時代の興行はまた違い、難しいですよね、より大きなビジネスになっていますから。あのときはそのような流れでボクが運営に携わるようになっていったんです。それで全日本アマチュア選手権の先駆けとなる大会を木口道場で開催したりもしました。参加者はたしか9人ぐらいで、そこにまだアマチュア選手の中井祐樹や久平が出ていたと思います。その次は木口先生の関係で町田市の体育館を使いやすかったので、木口先生にお願いして町田で第1回の全日本大会を開催したんです。そこではウェルター級で(佐藤)ルミナが準優勝をしました。もちろん佐山さんの許可は取ったうえでの話ですが。

――
それは給料をもらって運営に携わってたんですか?

朝日
 いや、すべてボランティアです。その頃ボクは山田学と一緒に住んでいました。アイツはパンクラスで、ボクは修斗なんですけどね。その大きなキッチンのフロアで大会のポスターやパンフレットを作っていました。

――
ほかに仕事をしながら運営に関わってたんですね。

朝日
 当然アルバイトをやっていました。だって試合をしても食べていけないわけですから。ファイトマネーはほぼない時代です。ほとんどゼロのときが多かったです。基本的には、知り合いにチケットをたくさん売った人間がより多くのお金を得られるような形でしたから、競技上の成績やチャンピオン云々などの肩書きもほぼ関係ありませんでした。

のちに佐山さんにファイトマネーを要求した選手もいたようですが、彼らの行為は否定はしません。しかし、ボクは佐山さんがいかに大変なことをやっていたのか理解していたので、要求しませんでしたし、これからもしません。佐山さんはタイガーマスクをやっていれば何億円も稼げたのに、総合格闘技のカケラも何もなかった時代にこういう機会を作ってくれたわけです。実家を担保に入れた話も聞いたことがありますし、そこまでやってもらっているのに、お金のことは言えません。だから、ボクはお金を要求したことは一切なかったです。 

――
しかし、よく生活できましたねぇ。

朝日
 ムチャクチャ、ヤバかったです。お金がなくて、冷蔵庫に残っていたあきらかに少し腐った感のある鶏肉を食べたこともありました。それで学んだことが「腐った鶏肉を焼いても菌は殺菌されず、それを食べたらお腹がかなり痛くなる。」ということでした(笑)。

――
ハハハハハハ!

朝日
 あの頃デザイン関係のアルバイトもしていて「試合前は休ませてもらえる」という雇用条件のもと働いていたはずなのですが、試合前日にデザイン室自体が閉鎖合併となり、アルバイトのボクは解雇となったこともあります(笑)。完全にそちらに転向しようと考えたくらい楽しい仕事で一生懸命やっていたんですけどね。そして、試合に勝って「今日はギャラをもらえるのかな……」と待っていても、今日も何もなし。「ああ、明日からどうやって生きていこう……」ということは恒例行事でした(笑)。

――
試合だけじゃなくて生活にも勝たないといけないわけですねぇ。

朝日
 桜田さんからの年賀状には「今年は靴を買おうな」と書かれていたり。欲しかったですね、靴(笑)。まあ、そういう生活は慣れていきましたけど、いま頑張れば必ず将来に何かあると考えて、とにかく必死でした。売れるまでは貧乏生活の芸人さんと変わらないんじゃないですか。ボクの最も好きな歌の一つである、ビートたけしさんの『浅草キッド』そのまんまです(笑)。

――
いつかは売れる日が来ると信じていたと。

朝日
 アマチュアの全日本大会を考案し開催したのも、このピラミッド構造の建立が競技の発展には必要不可欠と考えたからです。あたりまえなんですけどね。まず全日本大会から始めたことも、アドバルーンの意味合いを持つ一つのプランニングでした。第1回の全日本のときは、節約節約でどうにか掻き集めて2〜3万円のアガリは出しました。それは仕事料として申し訳ないけどいただきました。

――
でも、労力にはとても見合わないんですよね。

朝日
 全然足りないです。赤字です(笑)。しかし、手伝ってくれた人たちにお金を支払い、主催者のボクはかき集めて3000円ゲットということはほかにもありましたし、「まあ、いいか」と(笑)。いずれにせよ、修斗が良くなり、みんなが喜ぶことができる競技になればという、ただその思いだけでした。他には何にもないですよ。ある選手からは「朝日さんはどうやって生活しているの?試合をすればするほど貧乏になるのに」など言われましたが、「知らん!」とか答えていましたね(笑)。

――
あの当時の格闘家の「明日のなき暴走感」は痺れますねぇ。

朝日
 ボクは格闘技はそんなに好きではないのですが(笑)、自分自身の一つの証明の手段だっただけなんですよね、個人的には。あとは、小さい頃から成績も学校でもトップクラスで両親からも相当期待してもらっていたのにも関わらず、勉強にまったく意義を見出せず勉強なんかしないから、結果的にそこらへんの適当な大学に入り、しかも大学卒業後、こんな海のモノとも山のモノともわからない競技に携わるなど期待を裏切り、本当に迷惑を掛けてしまった両親に「あんたんちのガキは世界一だと証明するから待ってろ。それまでは家に帰らんから」という思いも強くありました。それが感謝と償いだろうと。だから、ボクは格闘技に懸けて毎日を生きたんです。意地でも世界一になると。何が世界一かわからない時代に(笑)。

――
いまでこそ世界一とは何かがハッキリわかりますけど、当時は……。

朝日
 そして、もう一つは、佐山さんが作ったこの競技をとにかく認めてもらおうと考えていたんです。だから、100連勝することに決めていたんです。決定事項でした(笑)。

――
100連勝!(笑)。

朝日
 ボクシングのフリオ・セサール・チャベスとも試合するつもりで勝手にいましたが(笑)、そうしたことが連なれば、いやがおうでもいずれ誰かがボクを見ますよね。そうしたら、やがて「なんだ?こいつは? なんだ?この競技は?」となるとも考えていました。だから、そのための準備として、とにかく誰よりも練習して自分の力を付けることに没頭ししたんです。修斗で勝つことはあたりまえと思っていましたし、一つ一つの勝ちなんかに興味はありませんでした。「世界は広い。必ずオレが張り倒さなくてはならない奴らがいるんだ」と脳みそでイメージしていたんです。幸せ者です(笑)。

――
100連勝を目標に掲げなきゃいけないほど、当時の修斗はホントにお客さんが入ってなかったんですよね。

朝日
 お客さんなんて入るわけないじゃないですか。それは佐山さんが悪いのではなくて、そういう時代ですから、方法論なんてありませんよ。誰もメジャーに行っていない時代に、日本のエースなのに飛び込んだ野茂英雄の状況と若干似ているかもしれません。いまはMMAというジャンルがそれなりに理解をされていますが、あの当時、誰が修斗なんてモノを理解していましたか? できますか?という話ですよね。

――
そうすると興行面ではスポンサーに頼るしかなかったわけですね。

朝日
 それは修斗というより佐山聡個人のスポンサーですよね。いまはこういう立場になったから佐山さんがやっていたことの大変さがよりわかりますし、佐山さんには感謝しかないです。佐山さんがウソをついたことといえば、誌面では「痩せる、痩せる」と言っているクセに、実際は運動をロクにしないで甘いものをバクバク食べていたことぐらいですよ(笑)。

――
ハハハハハハハ! 

朝日
 でも、やっぱりみんなも修斗の今後に不安はありました。山田学のパンクラス移籍はボクが交渉していたというのはご存知ですよね?

――
はい。

朝日
 ボクは1人でも格闘技という職業で食べて行くことができるのならば、どこでも行けばいいと考えていました。まあ、じつは、ボクもあのときパンクラスに行こうと考えたんです。しかし、ボクは70キロを超えたらまったく動けなくなることがわかり諦めたんです(笑)。

――
中・軽量級で食えるようになるのは、まだまだ後のことですね。

朝日
 それで正確な日付は忘れましたが、松崎しげるに似たヒクソン・グレイシーさんが来る少し前の年ですかね。当時の主力選手で集まり「みんなで最後は大会を開いて、もう修斗をやめよう」という話になったんです。これ以上やっても何も生まれないんじゃないかと。もうとにかくどうにもならず、ファイトマネーも出ない。修斗がイヤになったというより、生きる上で限界だと(苦笑)。

――
まあ、そうなりますねぇ。

朝日
 ボク個人でいうと、デザインをするところでアルバイトをしていたんですけど、もともとそちらの方面を志望していたこともありますが、仕事の方が本当に楽しくなってもいましたし、お金も得ることもできました。そんな時分でしたが、みんなで話し合い「後楽園を借りて一発ドカンとやって終わりにしよう!」というような話になったんです。例えば青葉台のアンナミラーズに集まり話し合いをしたりしましたが、そのときに取ったノートはまだあるかもしれません、タンスの奥の奥に。計画では、外部から平(直行)さんや大道塾の選手も呼んで試合をやり、それで全部終わりにしようなど話をしましたね。そんなタイミングで佐山さんから「いい話があるんだよ〜!」と言われたんです。

――
スポンサー関連で動きがあったとか。

朝日
 まあ、そういう話はたまに佐山さんがしてくれたんですが、なかなかうまくいかないことが多かったんですよね。佐山さんは相当苦労されたと思いますが。そのときはたしか不動産屋の方でしたが、恵比寿で主力だった選手が招集され、焼肉をご馳走になりました。その不動産屋さんが正式な形はスポンサーか親会社か忘れましたが、大会をやることになり「これは何か変わるのかな?」と。川やん(川口健次)がプロレスラーと試合をしたときがあったじゃないですか。

――
伝説となっている新格闘プロレスとの対抗戦ですね。

朝日
 それです。試合後、川やんに聞いたら、ギャラが凄くいいんですよ。「そんなにもらえるんだったら俺も出る!」です(笑)。

――
ハハハハハハ! 

朝日
 その次の流れとして龍車グループが修斗の親会社になったんです。

――不動産や温泉、パチンコなどの事業をやっていた龍車グループ。かなり太いスポンサーだったんですか?

朝日
 ボクがそれまで携わった中では最も大きな動きだったように思いました。失礼に聞こえたら申し訳なく思いますが、Jリーグやプロ野球のそうしたものと比べたら規模はまったく違うとは思いますが、そちらが親会社になって修斗の大会も開いてくれるとのことでした。

――
大宮にあった龍車グループの温浴施設の隣に、修斗のジムができたのも龍車グループの力なんですね。

朝日
 そういうことですね。それで最初に九平が大宮に行き、何ヵ月か遅れて中井も行き、ボクは週末に行くようになりました。そのときに「修斗のフロントとして働く人間はいないか?」という話になったんです。もう凄く悩んだんです。大宮で仕事をするとなると、一緒に住んでいた山田と離れなきゃいけない。山田と一緒に住んでいたのは、山田の糖尿病の問題があったからなんです。

――
突然の発作は山田さんの命に関わるから、誰か一緒に住んでないといけなかったんですよね。

朝日
 しかし、山田には本当に申し訳なかったのですが、誰かがやらないと修斗がマズイということで、ボクがフロントとして大宮に行くことになったんです。そのときは選手をやめて行きました。覚悟を決めて、修斗を軌道に乗せることだけにボクを懸けようと考えて。あれは95年4月からです。中井のバーリトゥードジャパンがあった同じ月ですね。

――
修斗のフロントとは具体的にどういう仕事だったんですか?

朝日
 いや、もう全部です。だって誰もいないんですから、ボクやりました。いままでは佐山さんが1人で全部やっていたんです。だから親会社が「誰かやれないか?」という話だったんですね。しかし、これからはボクが唯一の実働部隊としてやらなくてはいけない。名称的には、いまでいうところの修斗協会会長、サステインプロデューサー、大宮ジム代表、あと佐山さんから「選手いないから、試合もやってよ!」と要請も受けて、選手としてやってましたね。

――
代表兼エースって昔のプロレス団体みたいですね。

朝日
 過去のアーカイブデータもほぼないような状況でしたから、いろいろな文献から叩き出してアーカイブデータを作り出したり、アナウンスの台本も考えたり。他にもいろいろやりましたが、当時レフェリーの小方(康至)からは「審判部を作りたいんです」と言われたんです。だから「それは必要だ。オレが佐山さんの許可を得るから作れ」「いい人材がいるんですけど、昔はジムの会員で強くもなんともないから、先輩方からイジメられる可能性もあるんです」「おまえが推薦する人間なら、入れろ。あとはオレが守ってやるから、何かあったら、オレに言ってこい」なんて話をしたのですが、その人物が後年修斗コミッションとして幅を効かせることとなる鈴木利治でした。

――
そうやって審判部ができたんですね。

朝日
 あの頃はK-1の総合格闘技部門のお手伝いもさせていただいていたのですが、この話はK-1の大会終了後に品川のプリンスホテルの部屋でしたことはいまでも覚えています。そのほか、この先どういうプランニングをしていけば修斗は盛り上がるのかをいろいろと考えて実行していました。一昨年ヨリさん(中村頼永)から「会って、話をしようよ」と言われ、約17〜18年振りに会ったんです。

――
ジークンドーの中村頼永さんですね。

「佐山先生に言われたんです。俺の影になってくれと」…中村頼永インタビュー<シューティング黎明編>

運命のバリジャパ、安生道場破り、幻の長州戦真相――中村頼永インタビュー<ヒクソン来襲編>



朝日
 ヨリさんとは桜田さん、川口、ボクの4人で会ったんですが、その際に「いまの修斗のシステムを作ったのは昇じゃん」とヨリさんに言われましたが、いまに連なる修斗の近代化システムを作ったのはボクですね。“奇人”なんですが、はい(笑)。当時は「こんなん続けたら、ヤバイで……」という仕事量で、最初の半年は休みが2日間。1日はパスポートを取りに横浜に戻った日で、もう1日は「先生、海に行っていいですか?」と海に行きました。とにかくよく動きました(笑)。

――
興行の手応えはあったんですか?

朝日
 中井が出場したバーリトゥードジャパンの翌月の後楽園大会がボクの初めてのプロモートとなる大会でした。レムコ・パドゥールのところの選手が出たんです。中井のバーリトゥードジャパンでの頑張りにより、修斗もいままでより脚光を浴びました。それで1週間前にプレイガイドからチケットがバックされたんですよね。前売りで何枚くらい売れたと思います?

――そういう質問をするってことらはヤバイんでしょうね(笑)。

朝日
 確か77枚か78枚でした。

――
全然売れなかった。

朝日
  この数字は忘れません(笑)。会社の人は「当日でいつも200〜300枚売れるよ」と言っていましたけど、「そういう問題じゃないでしょ!」と(笑)。

――
バーリトゥードジャパンの直後にその売れ行きは、興行として伸びしろがないってことですよねぇ。

朝日
 それで決めたんです、「ブッ壊すしかない!」と(笑)。やっぱり当時の修斗は辛気臭かったですよね、ワクワクする華やかさがなく。だったら修斗はプロとしてハッピーな空間というイメージを持ってもらうようにすべきだと考え、大宮スケートセンターで八角形のリングで、外国人選手を呼びまくったんです。本社の人からは「3000人の会場は無理だよ。どうすんの?」と言われましたが、「お願いします。入れてください」と頼み、たくさんの協力をしてもらいました。無理矢理でもお客さんが入れれば、修斗のイメージを変えることができる可能性がありますよね。

――
ちょっと前の新日本プロレスでいうと「流行ってる感」というやつですね。

朝日
 だから、あらゆる方面にダイレクトメールを送りまくったりもしましたし、とにかく会場に来てもらおうという作業もしました。外国人ファイターもたくさん出場する、エンセン井上という大きな選手もいる、お客さんもたくさんも入っていて何かにぎやかだ。会場にちょっと行ってみようかな……という雰囲気を作ろうと考えたんです。そうしたら、当時『格闘技通信』の編集長だった谷川(貞治)さんから「修斗はやり過ぎだ」と書かれたんですよね(笑)。

――
いまとなっては谷川貞治にだけは言われたくないですが(笑)。

朝日
 例えば、バカボンの息子にそっくりなレムコの入場テーマを『元祖天才バカボン』にして、ボクの入場テーマに篠原涼子の『恋しさとせつなさと心強さと』もそのとき初めて使用しました。悪ふざけと思われたんでしょうね。プロとして「絶対イケるから」という確信もあり実行したのですが、理解されなかったんでしょうね。しかし、そう書かれたことで「勝ったな」とも思ったんです。なぜなら、それまでは見向きもされなかった修斗をようやく見たんですから。

――
修斗が興行として視界に入ってきたと。

朝日
 そして「よし、次だ!」ということで、次の駒沢大会ではケンドー・ナガサキさんやジアン・ジャック・マチャドを呼んで。

――
そういう流れでのナガサキさんだったんですか!

朝日
 アレもボクが責任者の大会でした。あのときの駒沢大会はエンセンがキモかスティーブ・ジェナムのいずれかと試合をする予定だったと思います。しかし、それが最終的にはなくなったため、プロモーターの役割のボクがメインイベントに出ることになったんです。あの辺りから修斗は空気が変わっていったとは思うんですよね。策略どおりでしたが、わけのわからない世界になり始めたというか(笑)。

――
佐山さんも新日本プロレスでライガー相手にエキシビジョンマッチをやったりしてましたけど、プロレスに対してはどういう距離感だったんですか?

朝日
 それは佐山さんの仕事だから、特になんとも思ってなかったですね。4代目タイガーマスクは大宮ではボクが一番仲が良かった人間の1人で、よく練習後は2人でデニーズに行き、アイツはコーンスープをオーダーして「粒が入ってない!」といつも怒っていたのを覚えています。また、4代目のプロレスデビュー戦のセコンドはボクとエンセンですよ(笑)。セコンドをやりながら、「○○○(4代目の本名)、すげぇ〜っ!」ってエンセンと喜んでました(笑)

――
でも、修斗ってアンチプロレスのカラーは強かったですよね。

朝日
 それは一部の人たちが変な喧伝をしていたんですよ。あとはそれに尾ひれや、はひれが付いたりと。ボクが良くないと思っていたのは、競技を本当にやってないのに、あたかも競技としてやっているかのように見せるプロレスですね。あとは、プロレスはまったく違う職種ですし、総合格闘技については何も知らないのにも関わらず、こちらの分野について中途半端にモノを言う方々に対しては納得できなかったですね。純然たるプロレスには何の文句もありませんし、失礼ですよね、そんなことを言ったのならば。

仕事柄よくラジオを聴いてるんですけども、先日高田延彦さんが出てきて「格闘王」と呼ばれていましたが、こうしたことにはなんらかの違和感を感じることは否めません。高田さんは大変な試合をやられた方ですし、そうしたことに対しては何も言うことはできません。しかし、「格闘王」という称号には、大変失礼かもしれませんが、違和感を感じざるを得ません。

――
要するに真剣勝負風に見せるプロレスや、やったこともないのにアレコレ言われるのはNGってことですね。

朝日
 例えば、他のスポーツのように競技的勝負論が存在しないのにも関わらず、子供たちに対して、まるで野球やサッカーなどの試合同様の競技的勝負論があるかのように伝えることは良くないことだと思います。

――
いよいよ今回の本題のひとつですが、1996年に佐山さんが修斗から離れますよね。

朝日
 まだまだ修斗の赤字は大きかったようで、親会社から補填せねばならないお金も大変になってきたと。よって「佐山さんはお金の計算にタッチする立場からは外れるから」というようなことを会社からは説明されたんです。そうした話を聞いていました。要するに、経理の部門が佐山さんから変わるというイメージだったんです。お金の管理を専門の方にやってもらうと。それは佐山さんを切るという話ではなくて。

――
朝日さんはそういう認識なんですね。


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