Dropkick

旭日双光章受賞!! 白覆面の魔王ザ・デストロイヤー■斎藤文彦INTERVIEWS

2017/11/22 14:24 投稿

  • タグ:
  • 斎藤文彦
b4c4a4e991da7666f97fd31a0cbdc9b8ca0c398b

80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは旭日双光章受賞!! 白覆面の魔王ザ・デストロイヤー」です!




Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー


■馬場、猪木から中邑真輔まで!「WWEと日本人プロレスラー」

■WWEの最高傑作ジ・アンダーテイカー、リングを去る

■『1984年のUWF』はサイテーの本!
■伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』 

■「現場監督」長州力と取材拒否

■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男

■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑

■ドナルド・トランプを“怪物”にしたのはビンス・マクマホンなのか


――今回のテーマは、秋の叙勲で旭日双光章(きょくじつ・そうこうしょう)の受賞が発表された「白覆面の魔王」ことデストロイヤーです。ボクは現役時代の印象はほとんどないんですが、10年ほど前、来日していたデストロイヤーを取材したことがあるんですね。

フミ デストロイヤーは引退後も年に一度、麻布十番のお祭りに参加するために来日していますから、おそらくその時期でしょうね。いまデストロイヤーは87歳になるんです。

――もうそんなお歳なんですね。

フミ 『週刊新潮』から旭日双光章の件でコメントを求められたんですけど、電話で取材してくれた30代のライターの方はデストロイヤーのことをまったく知らなかったんですよ。

――30代だとそうかもしれないですね。

フミ デストロイヤーには1930年生まれと、1931年生まれという2つの説があるんですけど、1930年は昭和5年です。

――昭和5年というと、もう遠い昔に感じます……。

フミ あの力道山と戦ったプロレスラーですからね。ボクの少年時代の記憶でも、日本組として馬場さんとタッグを組む姿ですよ。40代50代にはとっては、なつかしい存在なんですけど、30代以下になると「名前くらいは……」という感じになってしまう。でも、このデストロイヤーを知らなくて、プロレスマニアを名乗ってほしくない大変偉大なレスラーなんです。日本のプロレス史に深く関わっているんですね。

――旭日双光章を授与されるべき存在なんですね。

フミ 旭日双光章というのは、国や公共に対して功績がある者、文化またはスポーツの振興に寄与した者に授与されるんですけど、選定する側にとってはデストロイヤーは与えてしかるべき存在なんでしょう。日本のプロレスでセレブとなった最初の外国人レスラーにして、テレビの歴史に寄与した。ここに全局高世帯視聴率番組50傑の資料があるんですが、この調査が始まったのは1962年、つまり昭和37年です。これはNHKや民放すべてのテレビ局の平均高視聴率番組を記録してるんですが、1位が第14回NHK紅白歌合戦の81.4パーセント、2位が東京オリンピックの女子バレーで66.8パーセント。

――平均でその数字って凄いですね!(笑)。

フミ この50傑にプロレスの試合が2つだけ入ってるんです。4位が63年5月24日WWA世界選手権の力道山vsデストロイヤーで64パーセント、34位に65年2月26日WWA世界選手権の豊登vsデストロイヤーで51.2パーセント。

――豊登vsデストロイヤーで50パーセント超え!(笑)。

フミ 2試合ともデストロイヤーなんです。昭和40年代は、まだ日本中がテレビに熱中していたところはあるんでしょうね。いまのテレビ番組は20パーセントを獲れればウハウハですが、当時は30〜40パーセントの怪物番組がたくさんあった。テレビというジャンルではプロレスは人気のあるソフトだったということですね。

――その立役者がデストロイヤーだったからこそ、日本のプロレス史に欠かせないんですね。

フミ プロレスとテレビには親和性があるし、プロレスとマスク、テレビとマスクという親和性もある。デストロイヤーがスーパースターになれたのは、それらの親和性を見事に体現したからなんですね。

――そもそもデストロイヤーというプロレスラーはどういうキャリアを積んできたんですか?

フミ デストロイヤーの本名はディック・バイヤーといって、シラキュース大学でフットボールやレスリングで活躍したんですが、大学院修士も取っている文武両道の人だったんですね。卒業後は母校のフットボール部のコーチもやりながら、オフシーズンの仕事としてプロレスをやっていたんです。本格的にプロレスをやるとなったときにハワイでフレッド・ブラッシーと運命的な出会いをしてツアー生活が始まり、そこからロサンゼルスのWWAに移ってザ・デストロイヤーに変身したんです。

――どうしてマスクマンになったんですか?

フミ 若ハゲで前歯が折れていたからという定説があります。

――ああ、見かけが悪かったんですね。

フミ ロサンゼルスのジュリアス・ストロンボーというプロモーターから「キミはマスクマンをやるべきだ」って勧められたんです。ディック・バイヤーはプロレス自体はうまかったですから、デストロイヤーに変身するやトップレスラーとなって、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界チャンピオンになるんです。それまでもミスター・アトミックやゼブラキッドとか覆面レスラーは数多く存在したんですが、超一流レスラーの仲間入りをした初めてのマスクマンはデストロイヤー。マスカラス以前から活躍してましたからね。

――実力でのし上がったマスクマン、それがデストロイヤー。どうしてマスクマンは不遇だったんですか?

フミ どうしてもイロモノ扱いだったんでしょうね。「マスクマンなんているからプロレスはショーだと言われるんだ」と。当時は職業としてのマスク屋さんがいなかった時代ですから、マスクマンは自分たちの手で覆面を作るしかなかったんです。デストロイヤーの覆面の材料は女性用下着のガードルでした。それに穴を開けて目出しを作り、奥さんにミシンで改良してもらったりして、試作品を何個も作ったということです。

――レスラーとしての実力はそんなに凄かったんですか。

フミ マスクマンになるまで9年ぐらいはキャリアがあったんですが、ニック・ボックウィンクルさんに話を聞いたときに「私は3人のレスラーをモチーフした」と言ってるんです。その3人のレスラーとは、バディ・ロジャース、フレッド・ブラッシー、そしてデストロイヤーだと。 

――あのバディ・ロジャース、フレッド・ブラッシーに肩を並べる実力! 



この続きと、近藤有己、馳浩、金原弘光重病、仮面女子、藤田和之、クリス・ジェリコの記事まとめて読める「14万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
 

この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック!
 

ここから先は有料になります

ニコニコポイントで購入する

チャンネルに入会して購読する

  • この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。

コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事

継続入会すると1ヶ月分が無料です。 条件を読む

『Dropkick』チャンネル

『Dropkick』チャンネル

月額
¥550  (税込)
このチャンネルの詳細