Dropkick

運命のバリジャパ、安生道場破り、幻の長州戦真相――中村頼永インタビュー<ヒクソン来襲編>

2017/08/31 10:19 投稿

コメント:2

  • タグ:
  • 登録タグはありません
  • タグ:
  • 登録タグはありません
0ae5ab7934cb950bf047820fc0e042a8a641acdc
大反響だったUSA修斗・中村頼永師父インタビュー前編! シューティング黎明期の知られざるエピソードが続々と披露されたが、後編となる今回はヒクソン来襲編! 渡米した中村師父がグレイシー一族と出会ったことが日本の格闘技界を大きく変えることになる……13000字のロングインタビューでお届けします!


<前回はコチラ>
「佐山先生に言われたんです。俺の影になってくれと」…中村頼永インタビュー<シューティング黎明編> http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1307583




――
中村さんはアメリカではジークンドーの学校に通ったんですね。

中村 89年1月にアメリカに渡ったときに私がシューティングの人だと知った向こうの格闘技関係者から「グレイシー柔術という連中は誰にでも挑戦してくるから気をつけろ」と注意されたんですよ。

――喧嘩上等のヤバイ奴らだったんですね(笑)。

中村 「クレイジー柔術?」「そうなんだよ。クレイジーなんだよ」と(笑)。アルティメットの4年前のことですよ。

――まだバーリトゥードが知られてない時期ですね。

中村 佐山先生とは「バリツーズ」について話はしたことがあるんですけど。佐山先生が新日本プロレスにいた頃、イワン・ゴメスというブラジル人のバーリトゥードファイターが留学してたじゃないですか。ボクらは「バリツーズ」とはブラジルの格闘技という認識で「なんでもあり」を意味するとは思ってなかった。

――グレイシー柔術とはどういう出会いをしたんですか?

中村 ボクは2つの学校でジークンドーを習ってたんですけど、89年のある日、1つの学校のオーナーが「俺の知り合いにシュートレスリングを教えてくれないか?」って頼まれたんです。向こうではシューティングは射撃を意味するのでボクは普段「シュートレスリング」と呼んで説明していたんですね。その知り合いの人に2〜3時間丁寧にシューティングのグラウンド技術だけを教えていたら、最後にオーナーが「じゃあ2人でスパーリングをやってみて」って言われて。スパーしてみたら寝技がとにかくしつこかったんです。シューティングは当時寝技30秒ルールだったり、膠着したらブレイクで、積極的に速攻で極めないといけないからポジショニングの考えがなかったんですね。

――ポジションの概念が広まるのはUFC以降ですね。

中村 ポジションを取ってバランスを取って、ちょっとずつ崩して極めるのは30秒じゃとても足りないですから。でも、その人はいまで言うガードポジションを取ってジワジワと攻めてくる。「変わったペースで攻めてくるなあ……」と思いながら、ボクは相手の攻めをすべてブロックしてたんですよ。ボクたちも下から極める関節技のトレーニングをたくさんしてたので防御は知ってて。あのスパーはギじゃなくてTシャツでやったので、Tシャツを着た汗まみれのドロドロした戦いはボクのほうがうまかったので、最後は横四方固めをとってから手で肩を掴んで前腕で首を絞めたんですね。それで相手はタップ。

――そして、その相手の正体は……。

中村 じつはその人はホリオンの道場の黒帯のちょい前の人間で。当時のホリオンのところにはヒクソンもホイスもいますからね。

――知らないあいだにグレイシーの使い手とやらされていたんですね。

中村 そのオーナーは「誰と誰をやらせたら面白いか」みたいなことをやらせる人なんですよ。でも、やらせる前にボクのほうの種明かしをさせるのはね(笑)。こっちは相手が何をやるか知らないですから。

c74fb52d29be2a43d7d80284fae17058429013bd
アメリカでUSA修斗を立ち上げ、一時帰国した中村氏。佐山先生の顔もほころんでいる。


――グレイシーは当時は未知の格闘技ですもんね。それでよく勝ちましたねぇ。

中村 一本取ったことで何が起きたかというと、オーナーとダン・イノサント先生(ジークンドー最高師範)が評価してくれまして。アメリカの格闘技界隈でも話題になって、ボクが格闘技雑誌の表紙になっちゃったんですよね(笑)。

――日本から凄い格闘技がやってきた!と。

中村 巻頭特集もされて、アイドルみたいにピンナップになったり、シュートレスリングという技術本も出すことになったんです。向こうは実証すると認めてくれる人種なんですね。そこからボクのシュートレスリングのクラスにいろんな人が来るようになって、アルティメット出場前のホイスも見学に来たんですよ。

――メジャーデビューする前のホイス!

中村 当時はホイス・グレイシーと言われてもピンとこないですから「ああ、この人がグレイシー柔術の人なんだな」って感じで。向こうは「いつか戦うんじゃないか……」って青白い炎を燃やしてたんですよ。フレンドリーじゃないというか、あきらかにバリアを張ってるんです(笑)。

――ギラギラしてたんですね(笑)。

中村 そうこうしてるうちにヒクソンもやってきたんです。

――おお!

中村 ヒクソンはボクと同じ89年にブラジルからアメリカに渡っていて。アメリカの永住権を取るには何人かのサインが必要だったんですね。ボクのクラスに来てる生徒の中にはヒクソンの道場に通ってる子もいて、共通の知人がいたこともあって、イノサント先生がヒクソンの身元引受人の一人になってくれることになったんですよ。ダン・イノサント先生には確固たる地位がありますから。

――ヒクソンの身元引受人がイノサント先生。

中村 その御挨拶でヒクソンがイノサントアカデミーを訪れて、一緒にご飯を食べに行ったんですね。ヒクソンとはそこからの付き合いなんです。当時はまだチョンマゲ頭の冴えない兄ちゃんって感じですよ(笑)。強いんでしょうけど。

90aa86ca68f4dc405e81f6c1e051c2b7722b40d2
日本来襲直前のヒクソン。名前を上げたいヒクソンはこの席で「第2回シューティング・オープントーナメント」(バーリトゥードジャパンに改称)参戦を持ちかけたという。

――
その出会いがヒクソンの日本登場に繋がっていくわけですね。

中村 そうなんです。93年に織田無道さんがシューティングのスポンサーになって賞金を出してくれて第1回オープントーナメントをやるんですけど。それまでシューティングのリングは8角形だったのに6角形になったんです。なぜかというと、織田無道さんのマークが6角形なんですね。

――そんな理由が!(笑)。


・シューティングの賭けだったヒクソン招聘
・安生洋二道場破り映像公開の裏側
・幻のヒクソンvs長州力、笑撃の交渉決裂理由――13000字インタビューはまだま続く!


この続きと、中村頼永・前編、呪われた鉄の爪、グレート小鹿、RIZIN現実と理想トーク、堀口恭司、那須川天心…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
 

この記事だけをお読みになりたい方は下をクリック!




 

ここから先は有料になります

ニコニコポイントで購入する

チャンネルに入会して購読する

  • この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。

コメント

知らなかった事ばかりで、夢中になって読了してしまいました。

No.1 87ヶ月前

鳥肌立ちました。すごいインタビューありがとうございます

No.2 87ヶ月前
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事

継続入会すると1ヶ月分が無料です。 条件を読む

『Dropkick』チャンネル

『Dropkick』チャンネル

月額
¥550  (税込)
このチャンネルの詳細