80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます!
今回は「1990年の2つのドーム大会とSWS、『オリガミ』の集い」を語ります!
斎藤文彦・最新著作
『プロレス入門』神がみと伝説の男たちのヒストリー
https://www.amazon.co.jp/dp/4828419071/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_.ROZxbW0XSD1C
Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー
■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1010682
■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1022731
■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1039248
■超獣ブルーザー・ブロディ
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1059153
■「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1077006
■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1101028
■ヤング・フミサイトーは伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』の構成作家だった http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1115776
――前回の続きをお聞きいたします。天龍さんが全日本プロレスを離脱して、SWSに移籍するのは1990年4月のことですが、その時期は日本のプロレス界を揺るがす事件が相次ぎました。
今回は「1990年の2つのドーム大会とSWS、『オリガミ』の集い」を語ります!
斎藤文彦・最新著作
『プロレス入門』神がみと伝説の男たちのヒストリー
https://www.amazon.co.jp/dp/4828419071/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_.ROZxbW0XSD1C
〘神がみと伝説の男たちのヒストリー〙
鉄人テーズ、神様ゴッチ、人間風車ロビンソン、魔王デストロイヤー、
呪術師ブッチャー、ファンク兄弟、ハンセン、ホーガン・・・・・・
日米プロレスの起源から現代まで
150年以上にわたり幾多のレスラーが紡いだ叙事詩を
レジェンドたちの生の声とともに克明に綴る
「プロレス史」決定版
キャリア35年のプロレスライター・フミ・サイトーが、
幾多の取材、膨大な資料、レスラーへの貴重なインタビューをもとに記した
いま初めて綴られる、プロレスのほんとうの歴史。
日本のプロレス史は力道山、馬場、猪木という3人の偉大なスーパースターによってつくられた。そして彼らの歴史的な試合や事件の多くは主に田鶴浜弘、鈴木庄一、櫻井康雄という3人のプロレス・マスコミのパイオニアによって綴られてきたが、ひとつの史実でも語り部によってそのディテールが異なっている。たとえば力道山のプロレス入りのきっかけとなったとされるハロルド坂田との出会いや、力道山から馬場、そして現在の三冠王座へと継承されたインター王座の出自についても、それぞれストーリーが違ってくる。本書は過去60余年に活字化された複数のナラティブを並べ、ベテランのプロレスライターでありスポーツ社会学者でもある著者がこれを丁寧に検証し、昭和プロレス史の真相に迫った大作である。
Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー
■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1010682
■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1022731
■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1039248
■超獣ブルーザー・ブロディ
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1059153
■「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1077006
■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1101028
■ヤング・フミサイトーは伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』の構成作家だった http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1115776
――前回の続きをお聞きいたします。天龍さんが全日本プロレスを離脱して、SWSに移籍するのは1990年4月のことですが、その時期は日本のプロレス界を揺るがす事件が相次ぎました。
フミ その4月の13日の金曜日には、日米レスリングサミットが東京ドームで開催されましたね。
――WWE(当時WWF)、全日本プロレス、新日本の合同興行というあり得ない組み合わせで。
フミ WWEが日本進出する際、ビンス・マクマホンは任侠の世界じゃないですけど、日本の団体に仁義を切ったわけです。その相手はジャイアント馬場さんでした。
――新日本ではなく全日本。
フミ WWEは80年代には新日本と業務提携を結んでいましたが、レッスルマニアをスタートさせた翌年の86年を境に、ハルク・ホーガンたちの来日にストップをかけるんです。
――WWEは全米侵攻に力を入れたということですね。日本に主力レスラーを送り込んでる場合ではない。と。
フミ 当時のWWEは全米だけではなくヨーロッパや南半球でのツアーも始めてましたから、日本よりもWWEのスケジュールが優先されたわけです。こうして新日本のリングからWWEスーパースターズがすっと消えて、業務提携も空中分解。新日本のリングでタイトルマッチが行なわれていたWWFインターナショナル・ヘビー級王座やWWFインターナショナル・タッグ王座のベルトも消えていきました。
――それから4年後、全米をほぼ手中に収めたWWEが日本に再接近する、と。
フミ 90年1月になんの前触れもなくビンスが来日するんです。ビンスは全日本のジャイアント馬場さんと会談を持つんですが、WWEとしては単独で公演するよりも日本の既存団体との友好関係を模索したんです。
――WWEと馬場さんは当時どういう関係だったんですか?
フミ 全日本とWWEはまんざら無関係だったわけではないんです。全日本の旗揚げ2年目にはMSGシリーズという名称のシリーズ興行をやっていて、ペドロ・モラレスやゴリラ・モンスーンが参加しています。それは新日本が同名のMSGシリーズをやるより前のことです。その後、新日本とWWEの急接近が明るみになると、馬場さんは単身ニューヨークで渡ってマクマホン・シニアと会談してますね。
――付き合いは馬場さんのほうが古いんですね。
フミ さかのぼれば1964年に馬場さんはMSGでWWWF王者だったブルーノ・サンマルチノに挑戦しています。当時のマスコミはあきらかにしていませんが、その現場には婚約者だった馬場元子さんも帯同していたんですね。馬場さんと元子さんはWWEのバックステージで、蝶ネクタイをつけた若きの日のビンス・マクマホン・ジュニアがトコトコ歩いた姿を見たそうなんです。
――そのビンスがアメリカで天下を取り、馬場さんに会いに来たんですね。
フミ 21世紀はWWEのグローバリゼーションの時代ですが、あの時点ではWWEも日本の団体に門戸を開けてもらわないと日本市場進出はむずかしいと考えた。
――日本の団体に受け皿になってもらいたかったという。
フミ そこで馬場さんがWWEに提示した案は、全日本は協力するけど、新日本にも協力してもらいますよと。
――両団体がWWEの日本公演に協力する。なかなか斬新なアイデアですね。
フミ これは凄く政治的なアイデアなんです。全日本がWWEへの協力を断わったら、WWEは新日本と再び手を結ぶか、もしくはまったく別の方法で日本公演をやったかもしれない。
――ああ、なるほど。そしてここで新日本を巻き込んでおけば、新日本とWWEの再提携もやりづらくなりますし。馬場さん、さすが策士ですねぇ。
フミ あの当時は「どうして合同興行なんだろう?」というクエスチョンがみんなの頭の中にあったと思うんですけど。この形を取ればWWEと新日本のどちらにもノルマが生じる。
――馬場さんに誤算があったとすれば、WWEと手を結べるような巨大な団体が日本に生まれてしまったことくらいですね。
フミ WWEは2年後にSWSと手を結びますから、日本に進出できるなら受け皿はどこでもいいという考えがあったということもたしかですね。
――でも、あの当時そんな“第3団体”ができるなんて露ほどにも思わないですもんね。
フミ それに馬場さんはWWEにお願いされて手を結んだんです。WWEにお金は積んでいない。SWSの場合はWWEと業務提携するときに、団体を経営していた人がプロレスのビジネスとその慣習について素人だから言われるがままに大金を支払ってしまった。そこには大きな違いがありますね。
――その日米レスリングサミットの前に、新日本プロレスが2月10日に東京ドーム大会が行ないましたが、そこでも新日本と全日本は手を組んでいましたね。
フミ NWA世界王者リック・フレアーが初めて新日本に参戦するはずだったのに、来日中止になって新日本の目玉カード(vsグレートムタ)がなくなりました。困った坂口さんが馬場さんに頼み込んで全日本の主力勢のゲスト出場が実現したんです。これは余談になってしまいますが、あの当時のプロレスマスコミはまだまだ勉強不足なところがあって、WCWとNWAの違いがよくわかってなかったんです。
――プロレスマスコミでも把握できていなかったんですか?
フミ はい。団体名はWCWに変わってましたが、チャンピオンシップの名称だけはNWA世界ヘビー級王者となっていたことで、あの時点でもうNWAという組織は存在してなかったことがわからなかったんですね。80年代後半に日本のマスコミがNWAとして認識していたのは、ジム・クロケット・ジュニアがノースカロライナ州を中心に運営していたNWAクロケットプロ。その時点で全米各地のNWA加盟団体は、ことごとく倒産してるんですけどね。
――残ったNWA系団体がNWAクロケットだけだった、ということですね。
フミ そういうことです。なのでNWAクロケットプロだって、NWAという組織そのものというわけではないんです。そのクロケットプロが1988年に“テレビ王”テッド・ターナーのTBSに身売りをしました。
――そして新しく仕切り直された団体がWCW。
フミ TBSで放送されていたクロケットプロのプロレス番組が「ワールド・チャンピオンシップ・レスリング」。WCWという新団体名はテレビ番組名からそのままつけられたんですけど、チャンピオンはNWA世界王者のままだったから、日本でもその事情を把握してる人は多くなかったんです。
――それは面白いですねぇ。
フミ 日本側からすれば、オーナーが変わっていても、中身はNWAクロケットプロのままなんだろうと思い込んでいた。WCWは興行団体じゃなくてTBSのプロレス事業部だったんですが、それまでのノウハウがあるから興行は続けていたことも実態が把握できなかった理由のひとつですね。
――日本からは「NWAはまだ生きている」と見えたわけですね。じつは違う団体になっているのに。
フミ そのへんの事情について本当に詳しい人間は日本にあまりいなかったんです。というのも、『週刊プロレス』や『週刊ゴング』は毎週140ページある中で、アメプロの記事は4ページ程度しか割けないですから。
――それにあくまで試合レポートが中心ですね。
フミ その頃はアメリカンプロレスの政治事情を記事にしても、読者の反響はたいして大きくないですから、編集長だった山本さんにしても「やるな」とは言わないけど「やれ」とも言わなかったんですね。
――まさに“海の向こう”の出来事だったんですねぇ。
フミ リック・フレアーの衣裳の一部としてNWAのベルトが残っていたことも誤解される要因のひとつですよね。『東スポ』なんかにしても、「WCWヘビー級王座」という表記にしたのはずいぶんあとですから。
――91年の新日本東京ドーム大会のリック・フレアーvs藤波辰爾のNWA世界戦の裁定トラブルを境に、WCWとNWAのベルトは分離していきますね。
フミ 92年の第2回G-1クライマックスでは、空位とされているNWA世界ヘビー級王座を懸けたトーナメントが開催されて、蝶野正洋がリック・ルードを破ってフレアーベルトを腰に巻くんですけども。あそこでも日本のファンは「これは本物のNWAのベルトなの……?」と不審がったと思うんです。
――あのへんから日本でもNWAの扱いが雑になってきましたね(笑)。
フミ 話を戻すと、90年春には新日本と全日本が手を組んで、2つの東京ドーム大会を成功させました。それまでいがみ合っていた両団体の過去の歴史からは考えられない取り組みですけど、猪木さんのいない新日本、つまり坂口征二体制の新日本なら馬場さんは話ができるということなんです。新日本のバンバン・ビガロが全日本に出たり、全日本のスタン・ハンセンが新日本に出て、円満トレードというかたちでスティーブ・ウィリアムスが全日本に移籍しました。
――当時は信じられない出来事でしたね。
フミ アントニオ猪木さんがいなくなったことで情勢は凄く変わったんです。翌年、猪木さんの鶴の一声により、馬場・全日本との関係を再びシャットアウトされるんですけどね。
――2月のドームでは新日本vs全日本の対抗戦が行われましたが、4月の日米レスリングサミットでは新日本は提供試合としての参加でしたね。WWEと全日本に関わらなかった。
フミ 新日本同士の試合でしたね。橋本真也&マサ斎藤vs長州力&蝶野正洋のタッグマッチ、ライガーvs野上彰のシングルマッチ。
――ちょっと拍子抜けした記憶があります(笑)。
フミ 当時の新日本の内部体制は、坂口さんが社長となり、アメリカの永住権を持っていたマサ斎藤さんが帰国して渉外担当についた。坂口さん、マサさんの明大コンビに現場監督は長州力という体制になったんですけど。日米レスリングサミットには協力はするけれど、あくまで提供試合という決断を下したのはマサ斎藤さんだと思います。1回しか関わらないのに、交わる必要がないと。
――点を線につなげていくのがプロレスですから、線にならないなら賢明な判断ですよね。
フミ あの大会で実現した天龍源一郎とランディ・サベージのシングルマッチは、いまなお語り継がれる試合になりましたけど、名勝負となったのは偶然に近い。たとえば馬場さんとアンドレが初めてコンビを組んで、アメリカではバカ強かったデモリッションに簡単に勝ってしまった。
――デモリッションから強さを感じなかったのはガッカリしましたねぇ……。
フミ デモリッションはWWEでは最強タッグなのに、馬場さんとアンドレの大巨人タッグを前にしたらああいう結果になってしまう。他団体と交わると、そういうことが起こり得るんです。だから新日本は提供試合という判断をしたんだと思いますね。
――たしかに、あの当時売り出し中だった蝶野正洋や橋本真也がWWEスーパースター相手に存在感を示せるかというと……。
フミ WWE側からすれば「顔じゃない」という話になるかもしれない。こうして新日本はWWEと絡むことを避けましたが、馬場さんはいずれホーガンを全日本のリングに上げる含みもあったはずなんです。
――メインイベントは当初ホーガンvsテリー・ゴーディの予定でしたね。
フミ はい。そのカードが発表されていましたね。
――でも、直前でホーガンvsハンセンに変更されて。
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