プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回はドラゴン藤波辰爾がテーマです!イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
小佐野 藤波辰爾って私が初めてインタビューしたプロレスラーなんです(笑)。
――あ、そうなんですか。
小佐野 しかも16歳のとき。私が勝手に設立した新日本プロレスファンクラブ「炎のファイター」で取材したんですよね。
――16歳の小佐野さん!
小佐野 ファンクラブの先駆者的な感じだったと思うんだけど。あれは藤波さんが凱旋帰国した年だから78年の春ですよ。
――いまから38年前!(笑)。
小佐野 私はひとりで「炎のファイター」の会報を作ったんですけど。その頃はパソコンも何もないから、手書きしたものをコピーしてたんです。写真も載せたいから、きれいなコピーをできるお店を探して神保町を歩きまわったりしてね(笑)。
――それが編集者・小佐野景浩の原点なんですね。
小佐野 藤波さんを取材したのはその会報第一号を作る前なんだけど。6月1日の日本武道館大会。猪木さんのNWFヘビー級王座とボブ・バッグランドのWWFヘビー級王座の60分3本勝負ダブルタイトルマッチがメインだったんですよ。結果はフルタイムで猪木さんが1-0で勝ったんだけど、ルールでWWFのベルトは移動しなかった。
――2本奪取しないと移動しないルールだったんですね。
小佐野 その試合前になんとなく会場に早めに着いたら、会場入口に新間さんの姿が見えたんです。「あ、新間さんだ!」と思って手を振ったら近寄ってきてくれて「坊や、どうしたんだい?」「じつはファンクラブを作りまして。つきましては藤波さんにインタビューをさせてください」とアポなしでお願いしたら「ああ、いいよ! ついてきな」ってその場でやらせてもらうことになったんですよ(笑)。
――えええええ!? 何かの罠かなって思っちゃいますね(笑)。
小佐野 あの当時の新日本プロレスってストロングスタイルで怖いイメージがあったでしょ。簡単にオッケーを出してくれたからビックリしちゃってね(笑)。会場の中に連れて行ってもらったら、新間さんが藤波さんに「おい、カンペオン!ファンクラブの坊やがインタビューをしたいと言ってるからよろしむ頼むよ」と。藤波さんはそのときジュニアヘビー級のチャンピオン。スペイン語でチャンピオンのことを「カンペオン」と言うんだよね。
――しかし、急展開ですね。
小佐野 自分でお願いしたものの、その場で取材できるとは思ってもなかったから緊張はしましたね。そのインタビュー記事が創刊号の会報に載ったんです。そのとき藤波さんは24歳。当時のプロレスラーの中では、ファンの近いところにいたスター選手だったけど、こうやって16歳の私の相手もしてくれたんですよね。
――いくら新間さんの頼みでも、試合前だから「プロレスファンからの取材なんかできない!」って突っぱねてもおかしくないですよね。
小佐野 そこは藤波さんは我々と同じくプロレスファン出身で、猪木さんに憧れてプロレスラーになった。ファンの気持ちがよくわかっていたんでしょうね。
――当時は相撲やレスリングから転向するレスラーが多い中、藤波さんにはなんの格闘技歴もありませんでしたね。
小佐野 身長も190センチはなかったし、当時は大きい選手とは思われなかったけど、帰ってきたときはブルース・リーのようなバキバキの肉体。カール・ゴッチさんのところの練習で、つり輪をやらされ、十字懸垂ができたというんだもん。
――あの身体であの若さ、そりゃ人気は出ますよねぇ。
小佐野 エリートのジャンボ鶴田と違って叩き上げでファンからの共感も得やすい。ヨーロッパやメキシコで修行を積んで、24歳の若さでマジソン・スクエア・ガーデンでWWFジュニアヘビー級ベルトを獲得する。中学を卒業してプロレスラーになった若者がチャンピオンになって帰ってきて、英語もスペイン語もペラペラ。子供から見たらとにかくカッコいいわけですよ。
――まさに超新星ですよね。
小佐野 いわばレインメーカーだよね。みんな若い頃のオカダ・カズチカの記憶はなくて、帰ってきたらチャンピオンという印象が強いでしょ。それと同じで若手の頃の藤波辰爾のことはよく知らないんだから。
――ジュニアヘビー級というカテゴリーも藤波さんの帰国とともに定着したんですよね。
小佐野 当時のプロレスは無差別級の戦いという考えがあって、ダニー・ホッジがジュニアのチャンピオンとして来日したり、ケン・マンテルがやはりNWAジュニアヘビー級チャンピオンとして来日したときはジャンボ鶴田が体重を落として挑戦したことはあったけど。日本人がチャンピオンとして中心になったのは初めてのことだから。
――いまに繋がるジュニアの世界は藤波辰爾から始まったとも言える。
小佐野 それに動きも新しく見えた。ドラゴンロケットなどのドラゴン殺法。それまでは星野(勘太郎)さんがメキシコの技を取り入れていたけど、フライングヘッドバット程度。リングの外に飛ぶドラゴンロケットは衝撃的だったし。ウラカン・ラナをドラゴンローリングという名前で使ったりして、これまでのプロレスとは毛色が違ったわけですよね。そしてなんといってもドラゴンスープレックス。
――これぞ必殺技というインパクト!
小佐野 あの頃のスープレックスといえば、ジャーマンが最高で、ダブルアーム、サイドがあって、ジャンボ鶴田がフロントスープレックスを持ち帰ってきて大騒ぎになった時代ですよ。だからフルネルソンから、ぶん投げるというんだから騒ぎになりますよ。
――受け身が取れない危険な技として一時期封印されたりしましたね。
小佐野 MSGでベルトを獲った試合のフィニッシュはあの技だったけど、ぶっつけ本番でやったそうなんですよね。
――えええええ!? 天才だ!(笑)。
小佐野 ニューヨークで挑戦することが決まってたときに、メキシコから一度ゴッチさんのところに寄って「今度ベルトに挑戦するんですよ」と伝えたら「こういう技があるよ」と口で聞いただけ。それで試合でいきなりやってみた。
――どうかしてる! やっぱり天才だ(笑)。
小佐野 「あのときあの技がうまくいかなかったら、いまの自分はない」と言ってますよね。周囲はドン引きだったらしいけど(笑)。受け身が取れない技をやっちゃダメだろってことで、藤波さん本人は肩身が狭かったみたい。マクマホン・シニアだけは「コングラチュレーション」と祝ってくれたけど、「ニューヨークでもう仕事はできない」と思ったほどで。
――それくらい“やっちゃいけない技”だったんですね。
小佐野 だいたいゴッチの弟子という時点でマイナスなんですよ、アメリカでは。「ゴッチの弟子? コイツはヤバイんじゃないの?」って警戒されてるところに、あの技だからねぇ。
――「あの野郎、やっぱりやりやがった!」と。ゴッチさんの評判もどうかしてます(笑)。
小佐野 藤波さんはゴッチさんのところで1年くらい修行したあとに、ノースカロライナにブッキングされたけど、ロニー・ガービンにいきなり仕掛けられたりもしたしね。
――それもゴッチの弟子という肩書が……。
小佐野 おそらく。ロニー・ガービンはのちにNWAの世界チャンピオンになるんだけど、けっこう強かったみたいで門番みたいな立ち位置。
――いわゆるポリスマンだったんですね。よそ者を品定めする。
小佐野 「ゴッチの弟子が来る」から試したんじゃないかって。グラウンドになったらケツの穴に指を突っ込まれて、藤波さんは「なんでこんなことをされるんだろう!?」と驚いたけど、グラウンドの動きで返していったら、普通の試合に収まったんだけどね
――藤波さんも修羅場を潜ってますね(笑)。
小佐野 そういう時代だったんです。藤波さんの最初の遠征先はドイツなんだけど、そこではホースト・ホフマンにガチガチにやられて何もできなかったって。ホフマンはメチャクチャ強かったそうなんですよね。
――腕を競い合うことが当たり前の光景だったんですね。
小佐野 藤波さんは若手の頃はスパーリングばっかりやらされたそうですから。格闘技経験がなかったから組むという行為も怖かったし、何も知らないからやられ放題。あの頃の日プロには桜田さん(ケンドーナガサキ)とか大きくて強い人ばっかりいたしね。藤波さんは受け身の取り方もよくわからないまま日本プロレスに入門して。
――格闘技経験なしで日プロっていい度胸してますねぇ。
小佐野 藤波さんは中学卒業したあとは自動車の修理工をやってたんじゃないかな。ボディビルのジムに通って身体を鍛えて、同じ大分の出身の北沢(幹之)を頼って入門したのはいいけれど。格闘技の経験はなかったから正式入門じゃなかったんだよね。リングで練習させてもらえない。旅館の大広間で見よう見まねで受け身を取ったり、会場の隅でスクワットをやったりしてて。
――苦労人なんですねぇ。そして猪木さんとともに日プロを離れ、新日本プロレスの旗揚げに参加。そこからスターへの道が開けていきますね。
小佐野 カール・ゴッチ杯に優勝して海外修行に出された。それは75年6月なんだけど、新日本も海外に選手を出すほど人材に余裕ができたってことだよね。長州力はエリートだからその前に海外に出てたんだけど。
――のちの宿敵・長州さんはオリンピックレスラーですからエリートとして扱われたんですね。
小佐野 長州さんは新日本側からスカウトしてるから、次期エース候補として育てようとしてたんじゃないかな。藤波さんはルックスも悪くなかったし、それなりに期待もしてたと思うけど、新日本の売り出し方がうまかったですよね。藤波さんがニューヨークでベルトを獲ったときに『ゴング』の表紙を飾ったんだけど、マスカラスとのツーショットなんだよね。それは新間さんがマスカラスと当時の『ゴング』編集長だった竹内(宏介)さんに頼んでいた。「ぜひツーショットを表紙にしたい」と。
――全日本プロレスの顔でもあったマスカラスとのツーショットは異例ですね。
小佐野 それに当時の藤波さんとマスカラスではレスラーとしての格も全然違うわけだから。新間さんが頼まないと実現しないし、そうやってマスカラスと一緒に表紙になったことで「藤波辰爾はスターなんだ」というイメージ付けをしたかったでしょうね。そこは新間さんのセンスが凄いよね。
――MSGでチャンピオン、マスカラスとのツーショット表紙……スターのお膳立てはできあがっていて。
小佐野 その前に新日本は普通に藤波さんを帰国させようとしたら本人は嫌がったんですよね。ゴッチさんのところでのトレーニング漬けの生活を抜けだして、プロレスで飯が食えるようになったから。アメリカでもメキシコでもプロレスができる。「これがプロレスなんだ!」って楽しくなったんでしょう。日本ではスターでもエリートでもないから戻りたくないよね。
――だったら海外で試合をしていたほうがいい。マサ斎藤さんやカブキさんのようなアメリカを主戦場としたプロレスラー人生があったかもしれないんですね。
小佐野 あとゴッチさんの練習が本当に大変だったみたい。試合もせずにずっとトレーニング。テレビを見るのもダメだって話だよ(笑)。藤波さんの場合はゴッチ邸に住んでいたんですよ。木戸(修)さんがいたときは、アパートを借りて通いだったけど、木戸さんが日本に戻ったら金銭面でアパートを借りてらんない。だからゴッチさんの家に住み込んだ。
――24時間カール・ゴッチは息がつまりそう(笑)。
小佐野 日本の雑誌はみんな取り上げられた。藤波さんは日本語が恋しくなるんだけど。読めるとしたらゴッチさんの本棚にある難しいレスリングの本しかない(笑)。
――ハハハハハハハハハハ!
小佐野 ゴッチさん以外の人間と触れ合えるのは、ボリス・マレンコがジョー・マレンコを連れて来て練習するときくらい。ディーンはまだ子供だったかな。娯楽が何一つないとなると練習するしかないですよね。ロビンソンと名前がついたスープレックス用の人形を延々とぶん投げたりしてね。
――そのかいあって、ぶっつけ本番でドラゴンスープレックスができちゃうわけですね。
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