(写真:THE JOURNAL編集部)
私の最初の訪問地、限界集落
日本では、長野大学の大野教授が、集落の半分以上が65才以上となり集落として機能が果たせなくなった集落を「限界集落」と名付け、中山間地域や離島等僻地・過疎地の問題を提起した。私は国会議員になるとすぐ農林水産行政が原因の一つとなったことへの贖罪意識もあり、まず、山村の限界集落から支持者訪問を始めた。政治の助けを最も必要としている地域であり、私にできることを探すためであった。
もっとひどい崩壊集落
栄村を訪問中、古老からお叱りを受けた。「どんな大教授かしらないが、限界集落なんて人をバカにした名前をつけやがって。だけど、篠原さん、この辺りは限界集落なんてもんじゃねえで。俺みたい年寄りばっかりで、もうどうしようもない崩壊集落だぜ」。怒りとも諦めともつかない言葉に、私はただ苦笑いをするしかなかった。そして、思わず何ということか涙がこみ上げてきた。最盛期7,500人あった人口が今や2,500人弱と3分の1以下に減ってしまった。大雪に地震、そして柏崎刈羽原発への不安、難問ばかりの地域である。
丸太関税ゼロ(1951)、製材関税ゼロ(1964)で山村過疎化が広まる
民主党の経済連携PTで木材関係の関税ゼロが中山間地域の限界集落化の原因であることを指摘した。そして、その詳細を拙書「TPPはいらない!」(日本評論社)にまとめた。林業・山村の転落振りを概観すると次のようになる。
1951年、GHQの掛け込み自由化(?)で丸太の関税はゼロとなった。政府は不燃建造物にするため公官庁はコンクリートにせよと奨励していた。5年後の1955年、生産量は4,279万㎥、輸入量は2,483㎥にすぎず、杉中丸太の価格は8,200円/㎥、木材の自給率は94.5%とほぼ自給していた。10年後の1965年、戦後の復興も進み、住宅需要が増大したものの、戦中に切り出し戦後慌てて植林した山は伐採期にはほど遠く、やむなく64年に輸入木材への外貨割当を廃止し製材も関税ゼロとなり、ほぼ自由化が完了した。生産量5,083㎥、輸入は4倍の2,016㎥に増えたが、自給率はまだ71.4%、杉中丸太価格も1万4,000円だった。
脱兎のごとく押し寄せた関税ゼロの丸太・木材製品
その後、輸入量は一気に増え、80年には7,441万㎥と国内生産量3,456万㎥の2倍となった。しかし、好景気に支えられ新規住宅着工件数は伸び続け、杉中丸太価格は3万8,700円とはね上げ利、一時だけ山が賑わったかのように見えた。その後自給率は31.7%に低下した。
卵よりも米よりもひどい丸太価格の下落
その後も外材の輸入は増え続けたが、21世紀になると景気の後退もあり住宅の新規着工件数も減ってきた。その間に杉中丸太価格も下がり続け、2010年には1万2,600円と1980年の3分の1以下で1960年の水準に戻ってしまった。自給率も26%に下がった。よく米1俵60kgと1ヶ月の給料と同じだったとか比較されるが、多分、何十年も前の価格と比較した場合、丸太価格が最も低いのでいないか、これで、林業はほとんどやっていけなくなった。
関税ゼロの恐ろしさは、他に代替するものもなく、ただ、木材価格の値下がりを指を喰わえてみているしかなかった山村が最もよく知っている。
日本で消える集落、アメリカで荒廃する都市
炭鉱が閉鎖され財政が破綻した夕張市の前に、日本の山村の集落は次々とひそかに息を引き取っていた。その数は1970年から2000年の間でも7,536に及び21世紀になってからは、廃村が更に加速化していると思われる。
TPPに入り、農産物の関税がゼロになると、平地農村が崩壊し、地方の市町村が限界市町村となり、デトロイト化していくことは目に見えている。そしてひょっとすると都市こそ高齢化の波が一気に押しよせ、日本の中小都市のいたるところに限界団地が増えてくる可能性がある。
日本の山々は手入れもされず放置され、収入の途を閉ざされた。山村は生計を立てられなくなり、若者が山を去り、子供の泣き声が聞こえないところばかりになった。今、日本全国に波及した少子高齢化は、中山間地域では何10年も前から始まっており、これが日本全体の将来の姿だと警鐘を発し続けた。しかし、高度経済成長に躍る都会側は耳を傾けようとしなかった。
私は拙書で、農産物の関税をゼロにしたら、日本中の地方都市は限界市町村になってしまうと警鐘を鳴らした。しかし、同じく都会、そして経済ばかり目を向ける人たちには届いていない。
今日のデトロイトは明日の日本の中小都市
こうした中、アメリカでは破綻市町村が生まれ、とうとうデトロイトもその仲間入りしてしまった。日本の夕張市と同じようであり限界市町村や崩壊市町村とも同じである。日本はアメリカと異なり地方交付税や自治体健全化法があるからそれはないという人もおろうが、近い将来、日本でもあちこちの地方の市町村がデトロイトと同じ目にあうことを示唆している。
デトロイトは80年代の日米通商摩擦の象徴
デトロイトは、日本風に言えば、典型的企業城下町である。しかもアメリカの強さを象徴する自動車の町である。フォード(1930年)、GM(1908年)、クライスラー(1925年)のビッグスリーが次々にデトロイトで創業し、1950年代には全米で最も賃金が高くあこがれの的だった。ところが、1970年代以降、日本車に押され、安い賃金を求めて工場が米南部、カナダ、メキシコへと移転していった。1980年代後半、日米通商摩擦のまっただ中で、日本製乗用車をハンマーで叩き壊す映像が日本で何度も放映された。アメリカは、なにより自由競争を呪文のように唱える国である。その結果が2009年のGM、クライスラーの経営破綻である。政府のてこ入れによりやっと立ち直ったが、今度は市財政の破綻である。地方自治体にも大好きな市場原理の適用である。ネオ・リベリズム(新自由主義)の見事な成果なのだろうか。
都市の荒廃は廃村より悲惨
人口は1950年代の180万人から4割以下の703万人に減少、失業率は18.6%、殺人事件数は人口10倍のニューヨーク市と同数、廃墟ビル、住宅が7万8,000棟、そして市のたまった負債総額は180億ドル(約1兆8,000億円)である。
「盛者必衰の理をあらわす驕れる者久しからず」である。2008年にトヨタグループの自動車の販売台数で初の世界一になり、ビッグスリーを超えた。平家は源氏に滅ぼされたが、デトロイトは豊田に滅ぼされた。しかし、その豊田の盛者の期間も何10年で終わるであろう。工業都市の繁栄は100年と続かないことを示している。日本でも帝国データバンクによると100年続く企業は3%ないという。もういい加減にこのことに気づいていいはずである。
グッヅマイレージは少なく
世界の国々は、その国の国民が必要とする物は、なるべく自国で造るのが自然なのだ。物の移動によるCO2の無駄な排出を抑えるためにもグッヅマイレージ(物の移動距離×トン数)は小さい方が環境に優しいし、アメリカも何よりも安定した生活が送れる。半世紀で人口が半分以下になったりする急激な変化は、人々を不幸にするだけである。
自動車でいえば、アメリカを走る車はアメリカで造るのが一番効率がよく、日本から持っていくこともないし、日本車をわざわざアメリカで造る必要もない。みんなが仕事を分け合って生きればよいのだ。なぜこの単純なことができないのだろうか。
つまり人、物、金を世界でグルグル回しにするのではなく、なるべく近くの地域間で循環するようにすべきなのだ。私はこのことを「農的小日本主義の勧め」(1985年柏書房1995創森社)と「農的循環社会への道」(創森社)で訴え続けている。それを最も端的に示すのが、食べ物でいえば「地産地消」、「旬産旬消」であり、実はこのことはエネルギーにも向けにもあてはまるのだ。
地方の衰退を喰いとめる
日本は輸出産業にばかりに偏った国にしてはならない。要はバランスのとれた産業構造、社会構造をした国や地域が持続性に優れており、強い国・地域なのだ。賃金が安いからといって、あるいは市場があるからといって中国や東南アジアやインドへ工場など移してはならない。大都市ばかりを大きくしてはならず、地方も衰退させてはならない。多様性に富む国を政策で調整しなければならない。ただただ自由競争に任せていたら政府はいらないことになる。
TPPは国境をなくし、アメリカのルールを世界のルールにして世界中に第2、第3のデトロイトを生むだけである。日本政府も日本国民をしっかり考えなければならない時を迎えている。(しのはら孝blog 8.20より転載)
【篠原孝プロフィール】
民主党衆議院議員。1948年7月、長野県中野市生まれ。京都大学法学部卒。1973年4月 農林省入省。2003年11月 第43回衆議院議員総選挙にて初当選。農林水産副大臣(菅直人内閣)、民主党副幹事長などを歴任。著書に「TPPはいらない~グローバリゼーションからジャパナイゼーションへ~」(日本評論社)「脱原発社会を創る30人の提言」(コモンズ)「農的小日本主義の勧め」(創森社)など。
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