ところが左派が主導するショルツ政権に代わり、そこにロシアのウクライナ侵攻が起こると、ショルツ首相はドイツが伝統としてきた「平和主義」を大胆に転換した。ショルツは連邦議会で「民主主義防衛のためには国防への投資が必要」と宣言し、「紛争地に殺傷兵器を送らない」という原則を撤廃した。
ショルツ政権の新国防政策は、GDP比1.5%だった国防費を2%に増額するだけでなく、軍備増強のため13兆円規模の基金を創設し、また米国との核共有のため米国製のステルス戦闘機F35購入を発表した。F35購入はメルケル前政権が排除した計画である。
そしてドイツは自走式対空砲50両をウクライナに供与する他、ウクライナ兵に軍事訓練を施すことも表明した。さらにショルツは4月19日に行われた西側諸国の会合で「ロシアが勝利することはあってはならない」と発言した。
これは「ロシアが敗北するまで戦争を続ける」と言ったことになる。プーチンとの交渉や妥協を許さない発言だ。これまでEUとロシアとの共存を画策してきたメルケル前首相なら決して言わなかったであろう。保守政権がリベラル政権に代わると、これほど大胆に政策を転換できるものかと驚いた。
佐藤優元外務省主任分析官は、その背後にショルツ社民党政権と連立を組む「緑の党」の存在があると分析する。佐藤氏によれば「緑の党」は環境重視政党だから「平和志向」のイメージがあるが、「緑の党」を率いてきたベアボック外相が慎重だった社民党に対し、ウクライナに戦車や重火器を送るべきだと強く迫ったというのである。
民主主義という人類の理想を追求するためなら、何が何でも戦争に勝利しなければならないと考えたのだろう。しかしこれで戦争を終わらせることは難しくなった。戦争を終わらせるには様々な妥協と駆け引きが必要になるが、理想を追求するとそれが許されなくなる。
ショルツの「ロシアが勝利することはあってはならない」という発言は、この戦争が「正義と悪との戦い」であることを物語る。つまり2月24日のロシア軍の軍事侵攻以来、西側メディアが伝える「狂気の侵略者プーチンvs領土を死守する英雄ゼレンスキー」の構図そのものだ。
この構図で言えば、ロシアのプーチン大統領と欧州の平和的共存を画策したメルケルはとんでもない政治家だったことになる。事実、ウクライナのゼレンスキー大統領は国連の安保理でオンライン演説を行った際、フランスのサルコジ大統領とドイツのメルケルを名指しで非難した。
2人が2008年のNATO首脳会議で、米国のブッシュ(子)大統領がウクライナとジョージアの加盟を強く推したのに反対したからだ。ゼレンスキーはその判断を誤りだと非難したが、もし2人が加盟を認めていたらどうなっていたか。
歴史に「もし」はないことを承知で言えば、やはり戦争が起きていただろうと思う。2人はそう考えて欧州が戦火に包まれない選択をしたと私は思う。なぜならその頃からプーチンは欧米に対する怒りを募らせていたからだ。
2000年5月に大統領に就任したプーチンは親米派だった。2001年に米国に「9・11同時多発テロ」が起こると「テロとの戦い」に協力してアフガン戦争を支援した。そしてNATOにも接近し、ロシアはNATOの意思決定機関に参加して「準加盟国」の扱いを受けるようになった。
2002年にNATOの第二次東方拡大で、バルト3国、ルーマニア、ブルガリア、スロバキア、スロベニアの新規加入が決定されても反対しなかった。国内では軍部や議会が懸念を表明していたが、プーチンはNATOの軍事的色彩を弱め、ロシアに対する敵視政策を変更させようとしていた。
ところがルーマニア、ブルガリア、ポーランド、チェコに米軍基地が作られ、ミサイル防衛網が設置されてロシアを狙っていることを知り、プーチンは自分の考えが甘かったことを悟る。2008年のNATO首脳会議はその後だったから、プーチンの心は平和的共存を諦め、すでに欧米と戦う覚悟をしていたのだろうと思う。
だからメルケルは戦争の危険性を排除するため、プーチンと何十回も話し合い、平和的共存を模索してきたのだ。それが今となってはプーチンを増長させ、プーチンに軍事侵攻のインセンティブを与えたと批判されている。しかしそれは逆で、私はメルケルこそ政治家の最重要課題である戦争を起こさせない使命を全うしたと考えている。
では今回の戦争を起こさせたのは何か。それは民主主義という人類普遍の理想を追求する政治家たちがいたからだ。第二次大戦後の世界は自由主義と共産主義のイデオロギー対立の時代だった。米国を中心とする自由主義陣営から見れば、共産主義は人民の自由を奪い国家が人民を統制する「悪の帝国」だ。
一方のソ連を中心とする共産主義陣営からすれば、自由主義は人類を堕落させ、富の格差で少数の富裕層が多数の人民を苦しめる体制だ。多数の人民を解放するには自由主義体制を打倒しなければならない。従って両者間の戦争は必至だった。
しかし米ソは大国同士で簡単には相手を倒せない。しかも究極の大量破壊兵器である核を保有しているから直接の戦争は地球全体の破滅を招く。そのため戦火を交えない「冷たい戦争」が続くことになった。
もう一つ言えば、ソ連では「一国社会主義」のスターリンが権力を握り、「世界同時革命」を訴えたトロツキーが失脚した。トロツキーが権力を握っていれば自由主義陣営との衝突が世界規模で起きていたかもしれない。
また米国でも、理想を追求せずソ連を力で抑えることに反対したジョージ・ケナンの「封じ込め戦略」が採用され、米ソが直接衝突する危機は避けられた。封じ込め戦略はソ連の影響力が膨張するのを防ぎ、じっとソ連の内部崩壊を待つ戦略だ。だから朝鮮半島やインドシナ半島で「代理戦争」はあったが、世界大戦は避けられた。
そしてジョージ・ケナンの予言通り、ソ連はブレジネフ時代に共産党の腐敗が明らかとなり、それを改革するために登場したゴルバチョフ書記長が複数政党制や大統領制を取り入れたがすでに遅かった。政治的求心力を失ったゴルバチョフの大統領辞任と共にソ連は崩壊した。
すると米国の政治に、ソ連崩壊を共産主義に対する民主主義の勝利と考える思想集団が影響力を持った。ネオコンと呼ばれ、民主・共和両党にまたがる一大勢力となる。ネオコンの源流は「世界同時革命」を主張したトロツキーの信奉者で、彼らは人類普遍の理想として米国の民主主義を世界に輸出しようと考えた。いわば「世界同時民主革命」である。
ソ連なきあと唯一の超大国となった米国は、世界最強の軍隊を「世界の警察官」として世界各地の紛争に武力介入させ、米国の民主主義を世界に広めようとした。そして世界最大の大陸ユーラシアを民主主義一色にしようと考えた。
ロシアを民主化するためNATOの力を使い、中国を民主化するためには日本に役割を負わせる。そして中東は米国自身が民主化に乗り出した。ところが中東で米国は躓く。史上最長となったアフガン戦争で米国はタリバン政権の復活を許し、イラク戦争ではより過激なテロ組織を生み出して収拾がつかなくなる。民主化どころの話ではなくなった。
その間に中国とロシアが存在感を増し、特に中国は経済力でまもなく米国を追い抜こうとしている。それも共産党一党独裁体制を維持したままだ。米国が人類普遍の理想と考える民主主義が揺らぎかねない。
本来なら米国は中国への対応に全力を挙げなければならないが、それより前にネオコンが影響力を浸透させていたウクライナでロシアに対する戦闘の準備が整った。2014年に武力併合されたクリミア半島奪還の戦いである。ゼレンスキーは昨年3月に奪還の指令を発した。
ウクライナとNATOの挑発にプーチンが乗れば、NATOの結束は強まり、プーチンを侵略者として非難攻撃ができる。そのための情報戦の用意も整った。そして2月24日、プーチンは補給の準備もないまま軍事演習のロシア軍にウクライナとの国境を越えさせた。
ウクライナ軍を見くびっていたとの見方もあるが真相はまだ分からない。ただ領土的野心のためというのは違う。それなら周到な準備をしたはずだがそれが見えない。ともかくネオコンは計算通りにプーチン攻撃をはじめ、プーチンは世界中から「狂気の侵略者」の烙印を押された。
そのプロパガンダを一手に引き受けているのが民主党系のシンクタンク「戦争研究所」である。これがネオコンの巣窟だ。ネオコンは共和党にもいるが民主党にもいる。民主党のネオコンは「リベラル・ホーク(リベラルなタカ)」と呼ばれ、理想のためなら戦争をやる。
「戦争研究所」の所長ももちろんだが、その義理の姉がバイデン政権のヴィクトリア・ヌーランド国務次官で、「リベラル・ホーク」の代表格はヒラリー・クリントンだ。ヒラリーはずいぶん前からプーチンを「ロシア帝国再興の野望を持つ男」と批判して政治的抹殺の必要性を主張していた。
米国政治を見ると戦争を引き起こすのは民主党政権が多い。太平洋戦争はフランクリン・ルーズベルト、ベトナム戦争はジョン・F・ケネディ、「テロとの戦い」は共和党のブッシュ(子)だが、これはネオコンに取り巻かれた政権だった。そして今回のウクライナ戦争はバイデンである。
理想を追求するタイプの政権が戦争を引き起こし、ベトナム戦争を終わらせたのが共和党のニクソン政権であったように、戦争を終わらせるのはリアリズムの保守政権だ。ニクソン政権はキッシンジャーが外交を主導したこともあって、ソ連や中国と対立せず協調を選んだ。キッシンジャーは今回もロシアに領土を譲れと言ってゼレンスキーを怒らせた。
政治に対する根本的な姿勢の違いがあるのだろう。現実にある力関係を見て、その中でどうすれば国民を安全で豊かにするかを考える政治と、現実を脇に置いて、自分が理想に思うことをとことん追求する政治の違いである。とことん追求すれば必ず戦争が起こる。
それが現在の世界を覆っていると思う。だから軍拡が止まらない。メルケルの政治が批判されてしまうのだ。日本の岸田総理も軍事費の増額と反撃能力の保有を日米首脳会談でバイデン大統領に約束したという。なぜ記者会見を開いて国民に説明する前に米国大統領に言うのか理解できないが、それが日本という国なのだろう。
岸田総理が所属する「宏池会」という派閥は、「軽武装・経済重視」の路線で日本の高度経済成長の基盤を作った。軍事に力を入れないことで経済に力を集中させ、しかも巧妙に米国を騙す政治だった。岸田政権はそれとは真逆のことをやろうとしているように見える。それもこれも西欧的な理想を追求する政治に絡めとられているからだ。
先日のクワッドの会合で見せたインドのモディ首相の泰然とした様子がその対極に見える。かつての日本はアジアの王道政治を意識していたが、冷戦後には西欧覇道の政治に近づきすぎている。それが国民を幸せにするとは思えない。
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<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945 年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。
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