孫氏の兵法に「兵は詭道なり」という言葉がある。戦争は「騙し合い」という意味だ。できることをできないように見せかけ、必要であっても必要ないように見せる。また遠くにいる時は近くにいると思わせ、近くにいる時は遠くにいると思わせる。戦争に勝つには騙しが必要だと孫氏は説いた。

戦争の真相は分からないものだと思う。孫氏が言うように戦争の基本が「騙し合い」にあるからだ。例えば2003年のイラク戦争は、イラクが大量破壊兵器を保有していると米国が嘘の情報をでっち上げて先制攻撃を仕掛け、サダム・フセイン大統領を捕らえて処刑した。

この戦争にドイツとフランスは反対し、サダム・フセインの側に付いた。私はサダム・フセインが独仏にユーロで石油の決済を認めたため、ドルの力が揺らぐことを恐れたブッシュ(子)政権が、懲らしめに行った戦争とみているが、しかしいまだに戦争の本当の理由は明らかにされていない。

ところがウクライナ戦争で日本の新聞とテレビは、「これが真相だ」と言わんばかりの同じ内容の報道一色である。その情報源をみるとほとんどが米英発で、戦争の当事者の一方に偏っている。

米国ではリベラル系メディアが極悪非道のプーチン大統領を断罪し、ウクライナの悲惨な状況を人道主義的に報道するが、保守系メディアにはプーチン擁護の論陣を張る者もいる。しかし日本のメディアはリベラル系も保守系も揃って米国のリベラル系メディアに追随し、プーチン擁護は禁句である。

メディアはその方が視聴率を稼ぎ、読者も増えると考えているのだろうが、背景には岸田政権の意向を忖度している可能性もあると私は見る。岸田総理の最大の敵は自民党最大派閥を擁する安倍晋三元総理である。その安倍元総理はロシアのプーチン大統領や米国のトランプ元大統領と親交を重ねてきた。2人ともバイデン大統領の敵で、だからウクライナ戦争は岸田総理にとって安倍元総理の力を排する絶好の機会なのだ。

そのため岸田総理はどこまでもバイデン大統領に追随し、ウクライナ戦争を利用して権力基盤を強化したいと思っているはずだ。そしてバイデン大統領にとってもこの戦争は負けが確実視されていた秋の中間選挙に勝つための唯一無二の機会となる。

バイデンの支持率が急降下したのは、昨年8月のアフガニスタンからの米軍撤退によるが、さらにそれに加えてインフレが米国経済を襲い、世界経済のことなどお構いなしに利上げに踏み切らざるを得なくなった。秋の中間選挙に向けて不利な材料が相次ぐ中、ウクライナ戦争はそれを覆す絶好の機会になる。

米英発一色のメディアによって、平和なウクライナに突然ロシア軍が侵略を始めたと思わされる国民もいるが、そもそもウクライナにはカソリック教徒でウクライナ語を話す人たちと、ギリシア正教徒でロシア語を話す人たちがいて、それが内戦を繰り広げてきた。

プーチンが演習名目で国境周辺にロシア軍を集結させたのは、ゼレンスキー大統領が親露派武装勢力に対しドローン攻撃を仕掛けたのがきっかけである。すると中国との競争を最大の課題としてきたバイデン政権が、昨年11月に「タイガーチーム」という対ロシア軍事侵攻対策チームを作り、中国よりロシアに重心を移した。

アフガンから米軍を撤退させたバイデン政権が、対ロシアで軍を出すわけにはいかないという理屈で、バイデン大統領はロシア軍が侵攻しても米国は武力行使をしないと早くから宣言し、ロシアの武力侵攻を阻止しない態度を鮮明にした。私にはそれがプーチンに対する「誘い」に見えた。

そしてウクライナをNATOに加盟させる気はさらさらないのに、ゼレンスキー大統領をその気にさせ、ゼレンスキーにもプーチンを挑発させる。北京五輪が終わるやプーチンは2月21日に東部の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を承認し、安全保障上の同盟関係を結んだ。

その頃、バイデンは盛んに「戦争が起こる」と発言し、プーチンはそれを否定し続けた。ところが24日にプーチンは前言を翻して突然軍事侵攻を始めた。プーチンは2つの独立国に対する攻撃を阻止するためと言ったが、首都キーフに進軍したのを見ると政権転覆を狙ったものと考えられる。

なぜ突然軍事侵攻を始めたのか、真相はまだよく分からない。バイデンが言うように以前から予定していたのか、一方で25日にウクライナ軍が行動を起こす計画があったという情報もあり、それを察知して急に軍事侵攻を始めたと見ることもできる。

ただ以前から予定していたのであれば、補給がうまくいかずに軍事作戦が思い通りにならなかったのが不思議だ。演習目的の軍が何らかの理由で急に侵攻に踏み切ったため、補給がうまくいかず、軍の立て直しに時間を要する事態になったとも考えられる。

バイデンは第三次世界大戦を引き起こさないという理由で、ゼレンスキーが要求する一切の軍事支援を断り、それに代わる経済制裁を強化した。ロシア産原油や天然ガスを制裁の対象にすれば、米国産の原油や天然ガスが欧州各国に売れる。ウクライナに対する武器供与と合わせて米国の経済界にはうれしい話だ。

そのため負けが確実と言われてきた中間選挙で、バイデンは負けないかもしれないと言われるようになった。だから米国ではトランプ支持者を中心にプーチン擁護論が出てくる。バイデンを中間選挙で敗北させ、求心力を失わせないと、2024年の大統領選挙にトランプが再出馬する可能性が薄れるからだ。

バイデン政権の思い通りにならないのはトランプ支持者だけではない。G7に対抗して経済を成長させてきた中国、インド、ブラジル、南ア共和国などBRICSと呼ばれる新興国も経済制裁に反対だ。アジアの国々で制裁に参加したのは日本と韓国、台湾しかない。

そして最も注目すべきはサウジアラビアやUAEなどの中東諸国もバイデン政権に背を向けている。サウジは中国の人民元で石油の決済を行う方向と見られ、そうなれば世界基軸通貨としてのドルの地位は揺らぎ、人民元が国際通貨の地位を向上させ、経済制裁が裏目に出る可能性もある。

さらに言えば、この戦争で得をするのは米国だが、ロシアの原油や天然ガスに頼ってきたドイツやイタリアなど欧州各国は、この戦争の結果、経済が長期低落すること間違いない。ウクライナ難民の面倒も見なければならず、EUの負担は大きい。

現在はG7の結束を保っているが、エネルギー資源の自給能力のある英米とそれ以外の国では事情が異なり、日本もその一員だが戦争が長期化すれば事態は深刻になる。バイデン政権に追随するにはかなりの痛みが伴う。

そこで思うのだが、なぜこの戦争が起きたのかだ。冷戦の終結時から米国議会の議論を見てきた私の経験から言えば、ソ連が崩壊するまでウクライナとジョージアのNATO加盟はありえない話だった。ソ連封じ込め戦略を作成したジョージ・ケナンもキッシンジャー元国務長官もNATOの東方拡大には反対だった。

それをやれば生殺与奪の権を奪われたロシアが核を使ってでも反撃することになるからだ。米国にとって目と鼻の先のキューバにソ連の核ミサイルが配備されるのと同じで、配備されれば降伏するしかなくなる。だから何があっても反撃する。ところが米国が唯一の超大国になった時点から米国自身の態度が変わった。

米国の民主主義を世界に広める使命があると考えたクリントン政権は、「世界の警察官」となり、武力で各国の内戦に介入し、米国が信じる正義を各国に押し付けた。そしてポーランド移民の票を大統領選挙で獲得するため、ロシアが絶対に認めたくない東方拡大に踏み切ったのである。

次のブッシュ(子)政権はウクライナとジョージアの加盟を強く推してプーチンを怒らせ、それがジョージア戦争の契機となり、ジョージア国内に南オセチアとアブハジアの2つの親露派国家を誕生させた。

ウクライナ問題は、2014年に親露派政権を打倒したクーデターから始まる。クーデターを主導したのは米国のネオコンの代表格ビクトリア・ヌーランドだが、ヌーランドは現在バイデン政権の国務次官である。それがこの問題で表に出てこないのが不思議である。ともかくそれに対抗してプーチンはクリミア半島を武力で併合した。

この時、東部地域の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」も独立を宣言し、ウクライナ軍と戦争になるが、ドイツのメルケル前首相が主導して停戦のための「ミンスク合意」が成立した。「ミンスク合意」は2つの国の独立ではなく自治権を認めるものである。

これに不満だったゼレンスキーはその撤回を公約に掲げて大統領に選ばれた。ところがゼレンスキーは米国から全く相手にされなかった。そのためかトルコから輸入したドローンを使って東部の親露派武装勢力を攻撃、プーチンを挑発して今回の戦争に繋がったのである。

ゼレンスキーは戦争が起これば米国もNATOも加盟を認めてくれると考えていたのだろうか。考えていたとすれば極めて甘い判断だ。その証拠に戦争が始まってから何を要求しても米国もNATOも「頑張れ」というだけでNATO加盟を認めない。

問題はゼレンスキーがいつどの時点でウクライナのNATO加盟を無理だと悟ったかだ。ゼレンスキーは軍事侵攻から2週間たった3月7日に米ABCテレビのインタビューで、「NATOにウクライナを受け入れる覚悟がないことはかなり前に理解していた」と語った。「かなり前」がロシアの軍事侵攻前なら、戦争は未然に防げたはずだ。

戦争が始まってから悟ったのであれば、被害が大きくなる前に速やかに停戦協議を行うべきだった。確かに1回目の停戦協議は侵攻から4日後の2月28日に行われた。しかし同時にその頃ゼレンスキーは世界のヒーローに祭り上げられ、ロシアに譲歩する姿勢など見せられない状況だった。

ウクライナの代表団が中立化の提案を行ったのは、それから1か月後の3月29日である。中立化の代わりにウクライナの安全を保障してもらう国として、国連の安全保障理事会常任理事国メンバー5か国に加え、ドイツ、イタリア、カナダ、ポーランド、イスラエル、トルコの名前を挙げた。

私はこれでは遅すぎるし、多くの国に安全保障を担保してもらうというのではまとまるものもまとまらなくなる。申し訳ないが政治的にうまくなさすぎると思い愕然とした。これではプーチンに足元を見られて不利な状況に追い込まれかねない。

今や日米欧の各国でプーチンは許すべからざる大悪人である。精神異常の独裁者と言われ、次には権力機構内部での孤立を言われ、また軍との確執や情報機関との反目も指摘される。それは本当にそうかもしれないし、そうでないかもしれない。

孫氏の言うように「兵は詭道なり」で、できることをできないと思わせ、必要であっても必要ないと思わせるのが戦争の本質だからだ。だから世界のヒーローになったゼレンスキーがつまらない政治家と思われるかもしれないし、やはりヒーローのままかもしれない。

プーチンは第二次大戦後の国際秩序を破壊した大悪人と歴史に記録されるかもしれないし、第二次大戦後の国際秩序を破壊して新たな秩序をもたらした偉人と記録されるかもしれない。我々はそうした歴史の節目にいると思いながら私は毎日の戦争報道を見ている。

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<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
 1945 年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。

 TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。