選挙運動員への法定以上の支払いは買収になる。菅原氏も有権者への買収疑惑を週刊文春に報じられて辞任した。菅原氏の場合はすぐ辞めなかったが、河井氏の辞任は素早かった。週刊誌が発売されたその朝に辞表を提出、すぐさま後任の森雅子氏が法務大臣に就任した。国会が開かれているため安倍政権は一刻も早く「臭いものには蓋」をしたいのだろう。
安倍総理は1週間に2度も「任命責任は自分にある」と頭を下げたが、菅原氏も河井氏も菅官房長官の側近であることから、この人事は菅官房長官が主導したと誰もが思っている。安倍総理以上に菅官房長官に対する風当たりが政府与党内では強くなる。それは政局の始まりになるとブログに書いた。
つまり9月11日の組閣で「安倍・麻生」対「二階・菅」の綱引きがあり、二階幹事長留任が決まったことで「二階・菅」が勝ったかに見え、菅官房長官の政治力が安倍総理を上回るかに見えたが、週刊文春の報道によりその政治力に歯止めがかけられ、権力闘争の行方が混とんとすることになった。
ところが菅原経産大臣が辞表を提出する前日に、それ以上に深刻な問題を安倍総理の側近中の側近である萩生田文科大臣が引き起こしていた。萩生田大臣はテレビ番組で大学入試の英語民間試験について、「裕福な子供が有利になるかもしれないが、受験生は自分の身の丈に合わせて勝負してもらいたい」と発言したのである。
「身の丈に合わせて勝負しろ」とはどういうことか。経済的地位や地域的な格差を認め、憲法や教育基本法に書かれた「教育の機会均等」を無視する発言である。本人はそのことに気付いたのかその後発言を撤回し陳謝したが、それで済むような話ではない。
資源のない日本の最大の資源は人間である。その人間の能力を伸ばす教育は国力の源泉なのだ。ところが安倍政権はそれと真逆の政策を遂行しようとしていることが、文科大臣の発言から改めて思い知らされた。
戦後の焼け野原から立ち上がった日本は、朝鮮戦争の勃発で復興の端緒を掴み、さらにベトナム戦争の特需で恩恵を受け、高度経済成長を成し遂げた。それでも70年代の日本では日本経済の好調を「悪い品質でも安いから売れている」と自嘲気味に捉える風潮があった。
その見方を一掃したのが1979年に発売されたエズラ・ヴォ―ゲル著『ジャパン・アズ・ナンバーワン』である。ハーヴァード大学教授のヴォ―ゲル氏は日本経済好調の要因を分析し、日本人の学習意欲に注目した。特に読書時間が米国人の2倍あることや、新聞の発行部数の多さなどを米国と比較し、米国人に発奮を促した。
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は日本でも大ベストセラーとなり、日本人は自分たちの能力を再認識して大いに自信をつけた。私は本が発売された直後に来日中のヴォ―ゲル氏と懇談する機会に恵まれたが、その時のヴォ―ゲル氏の言葉を今なお忘れることが出来ない。
ヴォ―ゲル氏はまず「この本は日本を褒めたのではなく米国人を発奮させるために書いた」と言い、だから「ジャパン・イズ」ではなく「ジャパン・アズ」だと説明した。つまりナンバーワンと断定したのではなく、「ナンバーワンのような」と表現した。そして私にこう言った。
日本の強さは当時の大平正芳総理と成田知巳社会党委員長の関係が象徴している。二人はともに香川県出身だが、大平正芳は貧しい農家の生まれ、苦学して一橋大学に進学し、大蔵官僚から総理に上り詰めた。一方の成田知巳は市議会議員の子として生まれ、裕福な環境から東大に進学、それが戦後社会党から立候補して国会議員となり野党の委員長に上り詰めた。
貧しい生まれの子が与党のリーダー、裕福な子が野党のリーダーを務めているところに日本の活力はある。階級社会では起きない事が日本では起きている。それが日本の強さだと言った。それが崩れれば日本はたちまち沈没する。その予兆が「偏差値教育導入」にある。「偏差値教育」は小さなうちから子供を特定の階層に分類し、いずれは階級社会を作っていく。そうなれば日本は滅びる。ヴォ―ゲル氏の警告だった。
80年代に入っても日本経済は好調で、日本は世界で最も格差の少ない経済大国を実現する。87年に総理となった竹下登氏は「世界一物語」と言って格差の少ない日本を自慢して歩いた。それがプラザ合意以降、米国に円高と低金利を押し付けられ、そこからバブルが発生し、それまでの日本経済のシステムが壊れ、代わりに新自由主義経済が導入された。
それ以来、日本政治は格差のない社会システムを壊し、格差を認めることで活力を生み出そうとし始める。私は70年代初めの英国を取材したことがある。戦後「ゆりかごから墓場まで」をキャッチフレーズに福祉国家を目指した英国は経済成長が減速し、労働組合が強いため組合員が優遇され、大学を出た若者は就職できずに街で物乞いしていた。
その英国病を克服するため80年代にサッチャー首相が新自由主義を導入する。英国病の現実を見た経験から言えば「鉄の女」が新自由主義を取り入れたことはある程度理解できる。しかし80年代の日本は格差のない経済大国を実現し、ロシアや中国など社会主義国から賞賛され、米国でもクリントン政権は日本経済を見習おうとした。
その国が米国の政策によってバブルに陥り、バブルが弾けた後はデフレに陥り、そこから脱却するためと称し新自由主義に頼っているのである。日本に英国病と同じことが起こった訳でもないのに、格差拡大の政策を取り入れることが私には理解できない。私にはヴォ―ゲル氏の警告が甦ってくるのである。
ヴォ―ゲル氏に言わせれば萩生田氏の発言は日本を破滅に向かわせる考え方である。しかし菅原、河井両氏と異なり、萩生田氏は安倍総理の側近中の側近だから、辞任すれば安倍政権そのものが揺らぎかねない。従って英語民間試験を延期してでも辞任は避けようとするだろう。
だがこの話はそれで済む話だろうか。国民は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』でヴォ―ゲル氏が日本の力の源泉だと分析したことを今一度思い出すべきだ。スイスのビジネススクールが発表する「世界競争力ランキング」で、日本は1989年から1992年までは1位だった。それが年々順位を落とし、今年は63か国中30位である。
日本を立て直そうと考えるなら、その決意を示すために文科大臣の辞任はもとより、抜本的にこの国の教育制度を見直す必要がある。萩生田大臣の「身の丈」発言にはそれだけの意味があるのだ。
私は組閣から1週間後の9月18日に「あの内閣改造で安倍政権の『潮目』が変わったと言われる可能性」と題するブログを書いた。台風15号による大規模停電への対策に力が入れられていないことや、ドローン攻撃でサウジアラビアの石油施設が攻撃されたことへの対応が見えないことを理由に、安倍政権の「潮目」が変わったのではと書いた。
現実には公職選挙法に違反する容疑で、菅官房長官側近の閣僚辞任劇があり、続いて「身の丈」発言が飛び出した。公職選挙法違反も見逃すわけにはいかないが、「身の丈」発言は国家の将来を左右する話で、それ以上に見逃すわけにはいかない。やはりあの組閣で「潮目」が変わったと言われるようにしなければならないのではないか。
<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945 年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。
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THE JOURNAL編集部
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