アメリカ大統領選挙の本命ヒラリー・クリントンを脅かす民主党のバーニー・サンダース候補も共和党のドナルド・トランプ候補も強くTPPに反対し、オバマ政権が任期中に連邦議会で批准する見通しが立たなくなったからである。
そのため日本の国会が先に批准をすることでオバマ政権を側面支援し、オバマ大統領が残りわずかな在任期間に連邦議会で批准しやすくするためだと説明され、菅官房長官などは「TPPは日本が主導する」という言い方までした。しかし日米経済関係を見てきた私はアメリカがそれほど甘い国だとは思わない。
万が一TPPの批准が難しくなり、仕切り直しをしなければならなくなったとしても、日本の国会が先に批准をしていれば、アメリカはその後の日米二国間交渉で批准した内容の履行を迫ることができ、それが最低ラインとなって更なる積み上げも図れると考えていると思う。
一方で12月に日ロ首脳会談を行い、北方領土変換交渉を国民の鼻先にニンジンのようにぶら下げて政権の延命を図ろうと考えている安倍総理は、プーチン大統領との接近をアメリカに認めてもらう見返りにアメリカより先にTPP批准を約束せざるを得なかった。
アメリカ大統領選挙でもしトランプ大統領が誕生すれば、日本の国会が先に批准することの理屈は成り立たなくなる。アメリカより先に批准をするためには11月8日の投票日より前に批准を確実にする必要があった。
外国との条約は衆議院の議決が優先され、1か月たてば参議院で自然成立する。従って大事なのは衆議院をいつ通過させるかである。臨時国会の会期中に成立させるためには10月28日に通過を図ればよい。それが当初言われていたスケジュールである。それがだめでも11月8日に衆議院を通過させれば、万が一のトランプ・リスクに対応できる。
ところが11月8日現在、TPP協定はまだ衆議院を通過していない。与党は10日の通過を野党に打診しているが、まだ見通しは立っていない。安倍総理とその周辺が考えていた国会シナリオには完全に狂いが出ているのである。
狂いの始まりは臨時国会が開会した直後の9月29日である。TPP特別委員会の理事を務める福井照衆議院議員が二階派の会合で、「強行採決して実現するという形で頑張る」と発言した。その後、記者団には「どうしてもこの国会で採決したいという安倍晋三首相の思いをしゃべったに過ぎない」と釈明した。
福井氏は即刻特別委員会の理事を辞任したが、この発言で安倍総理がTPP協定を巡る国会審議を強行採決で乗り切ろうと考えていることが明らかになった。そして10月14日にTPP特別委員会が審議入りすると、直後の18日に佐藤勉議院運営委員長のパーティで再び「強行採決発言」が飛び出したのである。
今度は山本有二農水大臣だった。「強行採決をするかどうかを決めるのは佐藤さんだ。だから私は駆け付けた」と発言した。山本大臣は奇しくも福井氏と同じ高知県選出議員である。その後発言を撤回し陳謝したが、野党は硬化し当初目指していた10月末の衆議院通過はずれこむことになる。
そこで与党は11月2日の通過を予定したが、その前日の1日夜に山本大臣は自民党議員のパーティで「冗談を言ったらクビになりそうになった」と発言する。これで野党は山本大臣の辞任を求め与党は2日の通過も見送らざるを得なくなる。
そして4日を迎えた。そこでまことに奇妙なことが起こる。午後の1時半から予定されていた特別委員会は安倍総理も出席し1時間遅れで始まり、民進党と共産党の議員が開会を抗議する中で山本大臣が陳謝し、その後民進党と共産党の議員が退出する中で審議は続けられ、日本維新の会の議員による質疑が終わると討論に移った。
再び部屋に戻った民進党と共産党の議員が抗議の声を上げる中で採決は強行された。安倍総理も出席していたのだから安倍総理の了承のもとで行われた委員会のはずである。しかし佐藤議院運営委員長と大島衆議院議長は聞かされていなかったという。国会運営の中枢にいる議院運営委員長と衆議院議長は激怒したと伝えられている。
そのため11月8日の衆議院本会議での採決は見送られた。つまり安倍総理とその周辺がもくろんだ国会シナリオはことごとく躓いたのである。アメリカ大統領選挙でヒラリー・クリントンの優勢が伝えられているのが政府にとっては唯一の望みである。
もし万が一トランプ大統領が誕生すれば安倍総理とその周辺は顔色を失う。しかしトランプはプーチンびいきであるらしいし、また日本の独自外交にも文句を言わないらしいから、TPPの早期批准をしない方がその後の安倍政権にとっては好都合かもしれない。
私が感じ始めているのは安倍政権が昨年の安保法制で見せた強権的な国会運営が、この臨時国会から変化の兆しを見せていることである。臨時国会が始まる前までは安倍流の国会シナリオが想定されていた。しかし始まってからは偶然の重なりがそうさせているのかもしれないが、私の想定を超えて慎重と言うか丁寧さが伺える。
この臨時国会から自民党の司令塔は二階幹事長になった。それが官邸主導だった国会運営を変えさせている可能性はある。総裁任期延長というエサを与えて安倍総理の前のめりになる姿勢を抑え、しかしそのエサは国民に決して好まれていない。世論調査を見れば内閣支持率は高いのに総裁任期延長も安倍政権による憲法改正も支持率は低い。
そして安倍総理が政権の命運をかける北方領土交渉に対する期待もあまり感じることはできない。そこらあたりを見ながら安倍総理とその周辺の主導権を党の方が呑み込もうとしているように私には見える。
そういえばこの臨時国会の召集も安倍総理は急いでいたのに、二階幹事長は民進党の代表選挙を理由に後ろに遅らせた。そのあたりから何かが変わり始めていると私は思う。これからの国会の動向は要注意である。
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■田中良紹『国会探検』 過去記事一覧
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<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945 年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。
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THE JOURNAL編集部
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