さらに12月には農林水産省が農山漁村で働きたい人材を都市から地方に派遣する 「田舎で働き隊!」を2008年度中から実施すると発表した。08年度中は10日間の短期派遣「きっかけコース」を約800人、09年度は最長1年間派遣 の「おためしコース」を約50人予定している。総務省も集落支援員に加え、09年度の事業として、農山漁村自治体が都市の若者ら数百人を「地域おこし協力 隊員」として募集し、1~3年程度農山漁村で働いてもらう「地域力創造プラン」を発表した。
これらの施策を世界金融危機がもたらした雇用崩壊=派遣切りや内定取り消しによる失業者を吸収する「日本版・緑のニューディール政策」とする報道 もあるが、都市から農山漁村に向かい、そこに希望を見出そうとする若者の自発的な動きはこの10数年来のものであり、国の施策はこれを追認するものであっ て、やや遅きに失した感すらあるのだ。
たとえば新潟県上越市桑取谷――戸数120戸、人口約360人のこの地区には2001年に全国から9人の若者が集まり、『NPO法人かみえちご山 里ファン倶楽部』を結成し、消えつつあった雪国特有の伝統技術、伝統行事、郷土芸能などを受け継ぐとともに、都市生活者や子どもたちを対象に「茅ぶき古民家改修 桑取ことこと村づくり学校」「越後桑取谷 四季のまかない塾」などの体験企画を提供し、収入の手段ともしている。彼らのモットーは「山里の暮らしに学んで仕事をつくる」である。
熊本県菊池市水源地区の住民でつくるNPO法人きらり水源村では廃校となった中学校跡地を活用し、都市の親子が1年を通じて米づくり、食べものづくりを体験する「きらりおいしい村づくり」、地区の伝統芸能を伝える「きらり神楽教室」、地元学による地域資源マップづくり、国際ワークキャンプの受け入 れを行っているが、その中心となっているのは2004年に事務局長に就任した小林和彦さん(埼玉県生まれ、國學院大学卒、34歳)である。
今回の集落支援員、田舎で働き隊!、地域おこし協力隊のモデルになったのは、東京のNPO法人地球緑化センターが過疎地の自治体と1994年からすすめ てきた「緑のふるさと協力隊」である。これは農山村の活性化に関心をもつ若者を1年間自治体に派遣するもので、必ずしも定住を目的とはしていないが、15 年間で男女420人が派遣され、うち4割が派遣期間終了後も定住している。
筆者はこうした若者の動きに着目し、2002年に『青年帰農』を、05年に『若者はなぜ、農山村に向かうのか』などを発行してきたが、その過程でそうした若者の多くが1995年前後に大学を卒業するなどして社会に出た世代であることに気づかされた。「就職氷河期」の言葉が登場するのは94年だが、 95年には日経連(現経団連)が「新時代の日本的経営――雇用ポートフォリオ」なるガイドラインを発表し、若者の雇用のあり方が「安価で交換可能なパーツ労働」へと激変させられていた。
その95年とは、農山村にとっても転機となった年で、WTO発足の年でもあり、食管法の廃止とともにミニマム・アクセス米の輸入が開始され、以 降、米の市場価格は下落する一方となった。95年は、労働市場の自由化とともに農産物市場の自由化が急加速した年でもあったのである。
だが農村では、市場原理の激化、中小農家の切捨てに対抗して、女性や高齢者を中心に、朝市、産直、直売所、グリーンツーリズムなどの運動がつぎつぎ起き、小さな農家が小さいまま、生き生きと農業を続けられる事を示した。農山村に向かった若者たちは、そんな女性や高齢者の知恵や技、動く姿に「代替不能の労働」を発見し、そこに「かけがえのない自分」に生まれ変わる可能性を感じて行動をともにするようになった。そうした若者の中には、「限界なのは限界集落なのではなく、むしろ大都市や企業である」と言い切る者すらいる。
緑のふるさと協力隊OB32名はじめ、村外からのIターンが150人余りも暮らす群馬県上野村に半定住する哲学者の内山節さんは、「効率を優先する市場 経済の拡大で、我々はみな代替可能な労働力になってしまった。反面、支え合うのが当たり前な農山村では誰もがかけがえのない存在だ」(朝日新聞・群馬県版・09年1月1日)と述べている。
「集落支援員」とはいうが、集落に支援されるのは、市場経済にその生き方を否定された若者のほうなのだ。
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THE JOURNAL編集部
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