この裁判は、「イルム裁判」と呼ばれていた。「イルム」とは韓国語で「名前」を意味し、在日コリアンが、当たり前に本名が名乗れる社会を求めて起こした裁判だ。この裁判の判決を前に、韓国在住の弘益大学校助教授である金雄基さんから、絶対にこの裁判について書くべきだと連絡をもらった。「『同胞』なら意識を共有してしかるべきでは」「『普通の在日』が看過されていることに納得できない」と、私の背中を押した。
私が初めて金稔万さんと出会ったのは、2011年の8月に、大阪淡路教会で行われた「金稔万さん本名(民族名)損害賠償裁判を支援する会」に参加した時だ。その際には、「本名(民族名)を名のる意味」と題して、詩人の丁章さんと、積水ハウス本名裁判の原告だった徐文平さん(※)がこの裁判について語っていた。
金稔万さんは普段はドキュメンタリ映像作家でもあり、共通の知人も多かった。たびたび会う機会があり、何度か話もした。自分の亡くなった兄と共通する部分も多く、この裁判もできる限り支援がしたいと思っていた。
どのような判決になるのか未知数だったが、前日までに朝日新聞、毎日新聞、神戸新聞などで大きく取り上げられており、若干の期待はあった。
しかし、久留島群一裁判長は同日、「通名の強制はなかった」として請求を棄却した。久留島裁判長は判決理由について「当日から就労したいという原告の希望を実現するため、 業者が通名利用を持ち掛け、原告が了解した」と判断した。
その直後に開かれた記者会見の間、金稔万さんは故崔昌華牧師(※※)の「名前と人権」という本をずっと握っていた。「残念な結果。通名使用の了解はあり得ない」と述べたあと、長い沈黙が続いた。そんな場面は記者会見中に2度あった。
崔昌華牧師は、偶然だが金稔万さんの父親と同じ年だったという。父親は「日本では通名を名乗るのが当然」として、この裁判に反対していた。金稔万さんは、「名前をめぐっては家族でも思いが変わる」と、この問題の難しさについて触れていた。
しかし、その父親は一方で、自分の墓石には本名を刻んでいるという。「在日は、死ななければ本名を名乗れないのか。生きている間に本名を使える社会に」、「次の世代にも繋がっていかなければ」と、金稔万さんは声を振り絞った。まるで叫び声のようだった。
また、今回の裁判で被告となった業者の社長もまた、在日韓国人2世である。差別の構造に組み込まれ、在日同士が争わされることも悲しく、私たちに複雑な心境をもたらした。この事件は在日コリアンが本名を名乗ることの難しさだけではなく、日本社会の労働や経済など、いろんな問題を抱えている。
そして、通名を名乗らされることを、強いられること。「こんな話はよく聞く話」だと、記者会見で金稔万さんは話していた。だけど、こういったよくある差別の話について、日本人をはじめ多くの人は知らない。もちろん、本国の韓国人だってそうだ。訴えるということは、見えない差別を可視化することでもある。
創氏改名という、悲しい歴史を未だに在日コリアンは抱えている。在日コリアンを知ることは、日本の社会を知ることにもつながるだろう。そして、当たり前すぎて気付かずにいる、自らの名前の尊さと意味を知ることにもなると思う。
本名を名乗ることの意味について、「普通の在日」が振り絞った声を聞いてください。
一方、この判決では金稔万さんが特別永住者で外国人就業届の提出義務がないのに、元請けの社員が下請け業者に提出を要求したと認定。「原告が通名を使用する契機となったことは否定しがたい」と指摘している。
弁護団は「被告の言い分に乗り、証拠の評価が不当でずさんな判決」と批判、控訴する方針。
※2006年7月、大手住宅メーカーの積水ハウスに勤務する在日韓国人の徐文平氏が、「差別発言で傷つけられた」として、大阪府内の顧客に300万円の慰謝料と謝罪広告の掲載を求め大阪地裁に提訴した。積水ハウスは「雇用管理や社会的責任の観点から支援していく」として、訴訟費用の負担や、裁判に出席する間を勤務時間と認める措置を取った。
※※崔昌華牧師は在日韓国人の牧師で、人権活動家。1950年にNHKを相手に「名前民族読み訴訟」を起こし、63年に最高裁で敗訴となったが、氏名の原音読みに多大な影響をあたえた。また、外国人登録の指紋押捺拒否など、韓国人の人権向上のために尽くしてきた人物。
イルムから―当たり前に本名が名乗れる社会を求めて
http://d.hatena.ne.jp/irum/
※この記事はガジェ通ウェブライターの「rinda」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?
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