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自分のバイアスでデマを批判してデマを生み出す人と見えないゴリラの話。

2013/02/01 14:32 投稿

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自分のバイアスでデマを批判してデマを生み出す人と見えないゴリラの話。

今回はnamaerさんのブログ『名前あるの?』からご寄稿いただきました。

■自分のバイアスでデマを批判してデマを生み出す人と見えないゴリラの話。
3歳男児のくだり、勘違いしてたんで修正しました。「ビデオに映っていない」と書いてあった気がしたんですが、記事あげた後に再確認してみたらそういう一文がなかったもので、ごめんなさい。

●ジョシュア・ベル実験と美しいfacebookと美しいはてな
「Facebookで人気の「有名なバイオリン弾き」は限りなくデマ(追記あり)」 2013年01月16日 『hagex-day.info』
http://d.hatena.ne.jp/hagex/20130116/p12

批判するときにちゃんと原文記事にあたっていないおかげで割とひどい。

ワシントンポストの記事では、彼の演奏を気に入った人間は4人おり、

抄訳版の記事に踊らされている。

Things never got much better. In the three-quarters of an hour that Joshua Bell played, seven people stopped what they were doing to hang around and take in the performance, at least for a minute.

七人です。

この実験の動画はYouTubeにアップされているが、これを見ればFacebookの記述が嘘だとわかる。

つーか、実際の演奏時間は43分間だったんやで。2分半の短縮版でわかるわきゃないだろ。

まー、気に食わないものを批判したがるあまりにテキトーする人って、いますよね。だからこの記事も誤認が含まれている可能性もありますし、あまり信用しないほうが身のためです。

っていうか、今日はそんな話はどうでもいいんだ。ゴリラの話をします。

●見えないゴリラ実験
ジュシュア・ベル実験。どっかで聞いた実験やんね、と思ったら、最近読んだ本の中に出てきてた。
書名は『錯覚の科学』(クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ)。
本書の原題である「The Invisible Gorrilla(見えないゴリラ)」はとある有名な認知心理実験に由来している。
(この本を読んだブロガーは大体そう形容している。筆者はこの実験の存在を本書で初めて知ったし、見受けるかぎりでは彼らの大半もまたそうであったようなのだが。)

1999年、ハーバード大学の准教授シモンズは同大学院院生チャブリスと共同でユニークな実験を行った。

彼らは黒いシャツのチームと白いシャツのチームがえんえんとパスしあうさまを数十秒間撮影した。そうしてキャンパスで適当な学生を捕まえ、こう注文した。

「これから見せる映像の中で、白シャツチームのペアが何回パスしたか正確に数えて欲しい。ただし、黒シャツチームのパスは無視してもらいたい」

実験に使われた映像はウェブでも見られる。興味を持たれた向きにはこのまま読み進める前に是非試してもらいたい。

「gorilla experiment」 『the invisible gorilla』

http://www.theinvisiblegorilla.com/gorilla_experiment.html

タイトルでネタバレしてるのでこの実験の「意図」に気づかれた方も多いかもしれない。

実験終了後、シモンズとチャブリスは被験者に簡単な聞き取りを行った。

Q:パスを数えているとき、なにか変わったものに気づきました?

A:いいえ。

Q:選手以外に、なにか目についたものはあります?

A:うーん、エレベーターがあって、壁にSと書かれていた。Sってなんのことだろうと思ったけど。

Q:選手以外に、”誰か”がいたのに気づきました?

A:いいえ。

Q:ゴリラがいたんですよ。

A:え、うそ!!

驚いたことに、およそ半数の参加者がゴリラに気づいていなかった!

(p.18)

そう、映像の途中、ゴリラのきぐるみをきた学生が画面中央を堂々と横切っていた。にもかかわらず、被験者たちはパスを数えることに熱中するあまり、ゴリラを見落としていたのだった。

筆者は実験映像を本書で教えられて知った上で観た。正直なところ、「なんでこんなはっきりとしたものを見落とすんだ?」としか思えなかった。事実、「見えなかった」被験者の中には自分が見落とすわけがないと頑なに信じ、「ビデオのすり替えが行われたのだ」と実験者を非難する人さえいた。

パスのことなど念頭におかず、ぼんやりと映像を眺めれていればそれだけ「謎のゴリラ」には気づきやすい。ところが、「パスを数える」というタスクを与えられた途端、大勢の人がゴリラに対して盲目になってしまう。

なぜか。

この見落としは、予期しないものに対する注意力の欠如から起きる。そこで科学的には、「非注意による盲目状態」と呼ばれている。視覚系の損傷で起きる盲目状態とは区別して、こう呼ばれているのだ。ゴリラが見えないのは、視力に問題があるからではない。目に見える世界のある一部や要素に注意を集中させているとき、人は予期しないものに気づきにくい――たとえそれが目立つ物体で、自分のすぐ目の前に現れたとしても。つまり被験者は、パスを数えるのに夢中で、目の前のゴリラに対して「盲目状態」になっていたのだ。

(中略)

私たちは周囲の世界の、ある部分は生き生きと体験する。そして、自分が注意を集中させているものは、とりわけ鮮明に見える。だが、その鮮明な体験が、自分には身の回りのあらゆる情報を細部にいたるまで見逃さないという、誤った自信を生んでしまう。

(p.19)

運転中の携帯電話(ハンズフリーでさえ)が危険なのは、まさにこの「非注意による盲目状態」が生じるからであると本書では述べられている。

「盲目状態」は知力の高低や動体視力とあまり関係がない。「見えないゴリラ」実験でも最初の被験者はエリート中のエリートであるハーバード大学生であったし、後の実験でもプロの運動選手もまた「盲目状態」になると裏付けられた。

●ジョシュア・ベル実験
で、バイオリン実験の話。
『ワシントン・ポスト』誌の実験記事を読んだ著者は、現代人の干上がった感性(WPの元記事でいうところの the loss of the appreciation for beauty in the modern world.)を非難する音楽関係者の論調に疑問を抱いた。
彼が問題視したのは実験が行われた「場所」だ。ラッシュアワーの中央駅、そこはあまりに忙しすぎる。

だが、この実験では、美に感じる心が失われたことは証明されていない。

実験で言えるのは、人は一つの作業(職場に行くこと)に、注意(視覚および聴覚)を集中させているとき、予期せぬもの――名ヴァイオリニスト――に出会っても、気づく可能性は薄い、ということだ。

ワシントン市民が美を味わうために立ち止まるかどうか、それを調べる実験をわたしたちがおこなうとしたら、まず、大道芸人が平均的な数の客を集められる平均的な通りを選び、ある日その芸人のかわりにジョシュア・ベルに演奏を頼み、彼がふだん経験する客の反応と比較する。

つまり、人が美しい音楽に耳を傾けないかどうかを検証するには、まずそこに少なくとも聞く人がいることが必要である。

(中略)

通行人の耳には物理的にはヴァイオリンの音が聴こえていたが、注意が朝の通勤のほうに奪われていたため、彼らは非注意による聾状態になっていたのだ。

(p.46)

おそらく、ルネサンス時代のイタリア人だろうが、元禄年間の江戸人だろうが、自分のビジネスに追われていたら誰でも「乾いた心」を持っていたに違いない。

著者は自分の体験から、「夕暮れ時(みながゆとりのある時間)に、表通りからすこし外れた歩行者道路(誰もいそがない場所)で『ゴットファーザー』(誰でも知ってる有名な曲)だけを弾く路上アコーディオン弾き」を例にあげ、ベルは「土曜の夕方にプラットホームで短い曲を弾いていれば」もっと注目を集められたはずだと書いている(これは元記事でWPの記者が指揮者のストラキンに、「もし大道芸人が同じことを地下鉄の駅でやったら」という質問に対して「75%の人が気づくだろう」と答えたことを受けている)。

日本でも路上でパフォーミングするミュージシャンは多いし、渋谷なんかでも夕暮れ時にたびたび人だかりを作っているのを見る。だが、もし彼らが朝の通勤ラッシュ時に半蔵門や東京駅でライブしていたら、果たして同じように注目を集めることができるかしらん。

●自分の分野については視野を広くもてる。
前述のとおり、ベルの演奏に気づいた人は七人いたが、「一人は三週間前に彼のコンサートにいったばかりという人で、残り六人のうち二人はみずからも楽器を弾く人」(p.50)だった。
専門知識を持った人間はその専門の事柄について気付きやすい。
ゴリラの実験でも同様の現象が見られた。

ベテランのバスケットボール選手は、ゴリラに気づく割合が高かった。だが、ハンドボール選手の場合は、バスケットボールと同じほど注意力を必要とするチームスポーツであるにもかかわらず、同じビデオを見せてもゴリラに気づく割合が低かった。専門知識は予想外のものに気づく助けにはなるが、その範囲は自分の専門領域に限られる。(p.50)

まあ、単にワシントンの住民にクラシックに親しんでいる人が少なかったって、ただそれだけの話。

●要するに
美談も美談を賞賛する人も美談を賞賛する人を憎みたがる人もなかった。
あったのは、ある物事(たとえば心の乾いた現代人やそれを憎む人たちへ対する憎悪だとかゴリラの話だとか)に集中してると人間まわりが見えなくなりますよ、っていう、ただそれだけの、事実。

●追記
筆者ももしかしたらハゲなんとかさんを批判したいあまりにバイアスで嘘や勘違いを書いているかもしれません!
ぜひ『錯覚の科学』を購入しましょう!

●追記の追記
元記事の修正がなされたようです。
こういう煽りに「だからどうした、おれの言いたいことはそういうことじゃねえんだよ文盲」と返さない人は強い。

id:blueboy

この人も間違い。「4人おり」と言うのは、間違いではない。7人いるなら、「4人いる」は正しい。それを「嘘」と書くなら、それこそ完全な間違いだ。論理学わかります?

論理学は修めてませんが、なんとなくわかります。

書いた人の意図はどうあれ、文として限定が指示されていない以上、7人は4人を含むはずですね。正しい。

論点が若干がずれますが、っていうかそもそも他人のソースから筆者「事実」と思ってファクトを抜き出したわけで、それは広義には「嘘」の範疇なんでしょうけど、厳密には「間違い」ですね。

id:okemos

この人がなにを批判しているのかわからないな。妙訳に基づいたリンク先記事を原文に基づいて訂正しているが、その結果リンク先の主張が損なわれるわけではなくて、逆に強まっているのじゃないか?

そのとおり。ゴリラの話に誤魔化されている。「批判してるやつも実は間違っていた」という物語の枠で誤魔化されている。コメントでも言いましたが、人数の多寡は本記事の主張を損ないません。

人の心を動かすとすれば、「デマを批判する人はその批判に一点の曇りもなければならない」という点。そこを重要視するかしないかだと思います。

ただ、はげさんの主張は強化も弱体化もされないと思います。

執筆: この記事はnamaerさんのブログ『名前あるの?』からご寄稿いただきました。

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