劉備の孫・劉淵が蜀を復活させる、羅貫中『三国志演義』の続編、明の酉陽野史・著『後三国志演義』。全部で140回という、本編を上回るボリュームのこの小説を、蜀漢滅亡から劉淵のお家再興まで、章立てで言うと第一回から第四十回までのダイジェストで原文から訳出してみた。血沸き肉踊る三国志の新しい世界がこれである。
■第一部 蜀滅亡!しかし五虎大将の子孫は生きる(第一回~第十回)
さて、五丈原で天才軍師・諸葛亮(あざな孔明)が没してから、諸葛亮の弟子・姜維(きょうい)が後を継いで奮闘し続けた。しかしながら、魏軍には終始押され気味で、おまけに皇帝・劉禅がボンクラであった。なんと、姜維が出陣していた時に、間道をすりぬけた魏軍が蜀の都・成都を陥落させてしまう。蜀が滅亡した時、劉禅の甥・劉淵は蜀の名将の子孫たちと共に、魏軍の囲みを破って北へ脱出した。従う武将は…
劉封の子:劉霊と、義兄弟で斉の田単の末裔・斉万年
関羽・張飛・趙雲の孫・黄忠の孫・諸葛亮の孫・魏延の息子たちである。
実は彼らは姜維が育てていた蜀の第二世代であった。この中で、前半で一番活躍するのは「身長九尺六寸、面は紫の玉・鼻は獅子・太い眉に大きなアゴ・眼は爛々と輝き威風堂々たる武将。八十二斤のなぎなたを使う外、武芸全般に秀でている。」と書かれている斉の田単の末裔、猛将・斉万年(せいまんねん)である。蜀に続いて呉も首都を急襲され滅亡するが、陸遜の孫・陸晏と、周魴の子・周処は南の果て・広州で挙兵。この周処(しゅうしょ)は、人喰い虎と大蛇と共に呉の三悪(三害)と言われた評判のワルで、呉の人から「虎と大蛇とお前がいる限り呉は闇だ!」と罵られて改心、「山で虎を殺し、川で大蛇と戦い、都合三日三晩格闘し数十里も流された末、ようやくこれを始末」して、最後に俺がワルじゃなくなりゃ良いんだろと言って陸遜の孫・陸雲に学問を習って改心したという伝説の男である。周処は晋軍を十分の一の兵力で破るなど大暴れして晋の司馬炎を震え上がらせるが、最終的には降伏した。
呉と蜀が滅亡すると、魏を乗っ取って西晋(せいしん)の皇帝を名乗っていた司馬懿(あざな仲達)の孫・司馬炎(西晋の武帝)はすっかり安心したのか、元々女たらしの軟派な性格だった性もあり、呉の五千人の美姫を居城・洛陽城に引き入れ、夜となく昼と無く女遊びに精を出す。遊びほうけて軍備を怠り、家臣の陶コウ・郭欽の諫言を受けるが、そんなことは屁でもないと毎晩羊の車に乗り、姫を取っ替え引っ替えして遊ぶ有り様。これでは政治は混乱するばかり。やがて遊びすぎて体を壊した司馬炎は急死。息子の司馬イツ(恵帝)が継ぐがこれがまたオヤジに輪をかけたボンクラで、西晋王朝は政治どころではなくなった。
■第二部 西晋混乱!八王の乱と蜀の猛将・斉万年の奮闘!(第十一回~第三十九回)
さて、西晋のこの体たらくを見た劉淵たち。蜀の文官・劉巴の一族の手引で涼州へ落ち延び、そこで晋にしいたげられているチベット系のチャン(羌)族と出会う。斉万年はチベット人たちに武芸を披露すると、その超絶技巧に皆驚き、「虎殺しの将軍」と崇め始めた。そこで劉淵を大将、斉万年を切り込み隊長として遂に晋に反旗を翻した。これに驚いたのは晋軍、司馬懿の九男・西晋の趙王の司馬倫を総大将に、夏侯惇の孫・夏侯録(※注1)、夏侯駿らを派遣して蜀軍と激突した…劉淵軍の初陣だからちょっと詳しく訳してみよう。
「蜀のチベット兵がワーッと声を上げて突撃すると、城門が八文字に開いて,晋兵が無數に打って出る。その先頭に立つは一人の猛将、濃い眉・大きな眼、みごとなヒゲ,ヨロイカブトも光り輝くばかり。馬を走らせ大音声で『蜀の逆賊が何をしにきよったか。わしはあの夏侯惇が孫、安北鎮虜将軍の夏侯録じゃ。おのれらは何故晋に攻めてきた』と、怒鳴り声と共に蜀からは斉万年が討って出る。斉万年の面は紫の玉の如く、眼はほがらかな星のごとく、頭に金の兜を頂き銅の鎧を着て大薙刀を引っさげ、インドの名馬に乗ってムチで夏侯を指して大音声で『チベットの民衆をしいたげるチクショウはおのれか!わしは蜀で虎殺し将軍と謳われし斉万年よ!とっとと降伏すれば命だけは助けてやるが、そんな気もなさそうだ。そのクビ置いていけ!』と斬ってかかる。両将軍朝から昼まで100合も撃ちあうがまるで勝負がつかぬ。砂は飛び天は真っ暗だが、両名いよいよ気持ちが高ぶるばかり、一向に勝負がつく様子もない。すると晋からは狄猛、辺雄の二将軍が加勢に打って出る、ここで斉万年一計を案じ、逃げるふりをして後ろ向きに駆け出す。喜んだ狄猛、辺雄、ソレッと追えば、これが斉万年の計略、パッと投げ縄で武将を絡み取り、あっけなく二将を討ち取った。
夏侯録は二将討ち死にを見て気がふさがり胸がつかえ、眼からハラハラと涙を流し、激怒して弓を射て斉万年を負傷させた。しかしこれまた斉万年の計、傷ついたと見せて寄ってきた夏侯録を一刀両断。これで晋の西方を守っていた3将軍はあっというまにお陀仏になってしまったというわけ」 晋は夏侯録の次に呉の伝説の男・周処を援軍に出したが、これまた討たれた。鳴り物入りで出てきた割には大したことはなかった。晋軍は三度も負けた挙句、深追いして孤立した斉万年を落とし穴にハメて討ち取った。初めての仲間の武将の死にガックリ来た劉淵たちだったが、ここで奮起したのが張飛の孫・張賓。一人でダメなら集団戦だと、師匠・諸葛亮、姜維譲りの智謀を働かせて晋軍に逆襲する。
西晋は結局、劉淵に「漢の左賢王」の官位と領地を与えて講和することとし、兵を引き上げていった。劉淵は進撃を主張したが、軍師の諸葛宣が「蜀軍はまだ弱く、晋軍はいぜん強大です。まずは力をため、晋の内紛を待ちましょう」と進言。しばらくは山西省の領地で内政に励むこととなった。すると、合戦中も同輩たちの仲が悪かった晋軍は、いわゆる「八王の乱」と呼ばれる身内同士の同士討ちを初めた。
■第三部 蜀漢再興!しかしたちはだかる司馬懿・典韋・郭嘉の子孫たち!(第四十回~第六十回)
さて、八王の乱をみた蜀軍は、遂に「漢王」を称して蜀漢復興を宣言。
劉禅に「懐帝」のおくりなをたてまつり、20万の大軍で北から南へ南下し始めた。晋軍も典韋の子孫・典升、郭嘉の子孫、郭京らに城を守らせ、必死に抵抗する。しかし抵抗むなしく晋軍は次々に敗れ、遂に副首都の業都(※注2)防衛に全力を注ぐこととなった。こうなっては晋も総力を上げて蜀と対峙する。総大将は成都王・司馬穎(司馬懿のひ孫)、軍師には陸遜の孫・陸機が就任した。もはや漢民族のメンツも捨てて、異民族たちの軍までも援軍に呼ぶ始末。蜀軍も平陽城に首都を置き、両者は一進一退のにらみ合いの状況となる…ちょうど、ここで話しとしては半分である。
また、別の時に蜀軍の天下統一(六十回以降)を記したいと思う。
(注1…夏侯録の「録」の字は正確には馬へん)
(注2…業都の「業」の字は正確にはおおざとがつく)
(訳出の底本は『中國哲學書電子化計劃』本の他、「続三国志」系の諸本を参照した。画像は中国語版ウィキペディアのフリー画像より。北京・頤和園の壁画より三国志の武将の一騎打ちhttp://zh.wikipedia.org/wiki/File:Zhang_Fei_%26_Ma_Chao_(Long_Corridor).JPG)
※この記事はガジェ通ウェブライターの「松平東龍」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?
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