今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
■革新都政だった時代
美濃部亮吉知事、1967年から1979年まで3期12年、都知事を務めた。社会党と共産党のいわゆる左翼系の知事が首都に誕生したと、当時話題になったらしい。
子供だったから俺は当時の話は親の世代からの伝聞でしか聞いてないのだが、総じて「一生懸命都民のためにやったけど、結果的には失敗だったね」というものだと思う。
都民のためにいろいろやったんだよね。老人医療の無料化とか、公営ギャンブルの廃止とか。逆に住民の意見を尊重し、高速道路などの建設は停滞した。「一人でも反対があったら橋を架けない」と。また当時排気ガスによる公害が問題になっていたが、「駐車場がなければ都内に車で来る人はいなくなる」と。都内の駐車場整備が遅れたのはこのためだといわれる。
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美濃部知事は東京都を赤字に転落させた知事とよく言われる。直接の原因はオイルショックによる日本経済の急ブレーキだが、好景気による税収を前提とした美濃部知事の放漫経営のせいだといわれたようだ。
人を大切にする美濃部知事の都政が、金儲け一辺倒の企業からの税収に支えられていたという皮肉。美濃部知事が約束したバラ色の福祉社会も、しょせんは高度経済成長による企業収益という砂上の楼閣に築かれたものだった。
いまでいう「人にやさしい政治」を実際に実現したらどうなるか?を暗示している気がするんだよね…。
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美濃部知事のあとに就任した自民党などが支援した鈴木俊一は1995年まで4期16年を務めた。美濃部知事の残した赤字財政を立て直した一方で、バブルによる地価高騰など批判を浴び、悪名高い「都市博中止」を争点に勝利した青島幸男へと時代は移っていく。
青島都知事は都市博を中止した以外ほとんどなにもやらず、1期4年で退任。1期しかやらなかった都知事はこの人だけ。その後都知事に就任したのが石原慎太郎ですな。そもそも青島は、都市博の中止もなんか無理やり駄々っ子のようで、官僚をコントロール出来ているようには見えなかった。青島には「東京都」という巨大組織を動かせなかったのだろう。
「やらない」決定は無能な人間でも出来るんだよね。ハンコを押さなければいい。でもなにか積極的な政策を「やる」のは、組織を動かせる人間でないと難しい。奇しくも大阪では横山ノック府知事がわいせつ事件でもめていた。
執筆:この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年01月13日時点のものです。
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