二年ほど前に海外旅行に行った際、フランス人の友人が出来た。
彼は日本のサブカルチャーに感銘を受けた親日家で、それもあってか初対面の私にとてもよくしてくれた。
最終日に空港までお見送りに来てくれた彼と別れを惜しみ「今度日本に来たら是非また会おう!」と言うと、彼は嬉しそうに「日本に行ったら『ヒサシブリ』という言葉が使える。それが嬉しい」と語っていた。
少し前に流行った“MOTTAINAI=もったいない”や、東京五輪招致の際に話題になった“OMOTENASHI=おもてなし”のように日本特有の素敵な言い回しの一つとしてこの“ヒサシブリ”があるらしい事をその時知り、自国の文化に少し誇りを覚えながら帰国した事を思い出す。
彼と日本で再会した時、それはそれは嬉しそうに『ヒサシブリ!』というので私も『久しぶり!』と答えておいた。
まるでもう何年も前からの仲のようにその後酒を飲み交わしたのだが、その時自分が発した『久しぶり』という言葉にほんの少し違和感を感じていた。
先日、二年ぶりに会う友人がいた。
私がTwitterで「カラオケ行きたい」と言ったことがきっかけで会うことになったのだ。
少し容姿の変化したお互いを見て『久しぶり』と言い合ったが、やはり本当の懐かしさをそこに感じてはいなかった。
なぜなのだろうか。
フランスの友達もカラオケの友達も“久しぶり”に会っているのに全然懐かしくない。
小学校の時転校していった友達や、大学のゼミで一緒だった友人と街中で偶然会ったときはものすごく興奮したのに。
答えは意外なほど簡単。
フランスの友達とはFacebookで、カラオケの友達とはTwitterで友達だったからだ。
今や習慣のように開くスマホの画面の向こうでは、常に彼らが日常を世界に私たちに報告していた。
彼らの素敵なプロフィール画像(アイコン)と共に投稿される日常を見て、私はインターネットの世界で常に彼らと共に居るような気がしてしまったのである。
隙あらばいいね!やリプライで反応を示し、関係が深まったような気になる。
だから現実の世界で彼らと実際に会い、会話し酒を酌み交わしてもイマイチ実感がなかったのだろう。
いつからか、こうやって人と会って会話することにそれほど重要性を感じなくしまっていた。
あと何日あるかわからない自分の人生の中で、あと何回大切な人の顔を見て笑うことができるのだろう。
SNSがなくしつつある“久しぶり”の意味を感じて、いつもより人と会う時間を大切にしようと思う今日この頃である。
※この記事はガジェ通ウェブライターの「ぶらっくまぐろ」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?
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