※この記事はニュース解説サイト『新潮社Foresight』より転載させていただいたものです。 http://www.fsight.jp/ [リンク]
ロシアを代表する国際関係の専門家である、カーネギー財団モスクワ・センターのドミトリー・トレーニン所長が、北方領土問題に関する論文を発表し、50年後に北方4島を日本に返還し、日本の協力で極東シベリア開発を進め、アジア太平洋の安全保障を強化する――との未来志向を前面に出す提案を行なった。領土で譲歩することで、日本の極東経済進出を図り、日本を「アジアのドイツ」にするとの認識を示している。民族愛国主義が主流のロシアで、4島返還論が登場するのは異例。改善基調にある日露関係に波紋を投じそうだ。
●ドイツとの関係を参考に
「ロシア太平洋地域の将来-南クリール紛争の解決」と題する英文の論文は、同財団のサイトで見ることができる。
http://carnegie.ru/publications/?fa=50325
論文は「北方領土問題は低調な2国間関係のシンボルになっており、それを解決することで、障害を取り除き、双方が互いに貢献し合うことが可能になる」とし、日露両国は相互に認め合う国境を画定する戦略的アプローチに着手すべきだと強調。関係を再構成することで、アジア太平洋での両国の立場が強化されると訴えた。
論文は北方領土問題の過去の経緯や展開に触れた後、「日露両国は第2次大戦や冷戦のプリズムを通して紛争を解決しようとしており、そこには未来がどうなるかというヴィジョンがない」と指摘。両国の利益団体らが狭隘な視点で主張を貫いてきたことも解決を遅らせたと批判した。
さらに、「過去の経緯から引き出される5つの教訓」として、(1)領土問題は時間とともに解決されない(2)過去を振り返る解決策は不毛で、全く新しい物語が必要(3)領土問題は経済、政治、戦略問題と分離できない(4)考えられる唯一の解決策は、日本の4島返還要求とロシアの歯舞、色丹引き渡し案という2つの立場の相互譲歩にある(5)両国指導者は互いの妥協に必要な支持を国民から得る必要がある――を挙げ、「北方領土問題を解決する唯一の道は、日露が互いを価値のあるパートナーとみなす抜本的に新しいアプローチを採用することだ」とした。
トレーニン氏は特に、1970年代初期のデタント期にブラント元西独首相が進めた「オストポリティーク」(東方外交)が参考になると強調。ドイツが旧ソ連・東欧諸国と交渉し、一連の条約を結び、戦後処理を完了したことが、ドイツ統一に道を開き、欧州でのロシアの立場を強固にしたと指摘。「領土問題が存在する限り、ロシアは日本との関係を現在の独露パートナー関係に似た関係に再編することはできない」とし、「アジア太平洋でオストポリティークの発想」を導入するよう訴えた。
また、領土問題解決により、「ロシアは未開発の極東建設に協力できる価値あるパートナーを持つことができ、日本は新しい同盟国を持つことでアジアの安全保障を強化できる」と将来の日露準同盟関係にも言及。両国は中国に対する外交的立場を強化でき、アジア太平洋の安全保障環境に貢献するとし、米国にとっても好ましい展開になるとしている。
●5つのステップ
論文は領土問題の具体的な解決策として以下のステップを提案している。
1、ロシアは直ちに、1956年日ソ共同宣言で引き渡しを約束した歯舞、色丹(4島面積の7%)を日本に提供する。
2、日本は南クリールとロシア全土で、公的部門の投資や民間部門へのインセンティブ供与を通じて、経済活動支援を開始する。
3、日露両国は4島に経済特区を設置し、両国政府が管理する。
4、4島は非軍事化され、ロシアは当面、国後、択捉への主権を維持する。日本人は自由に4島を訪れることができるようにする。
5、50年の期間を経て、国後、択捉は日本の法と主権の下に移管する。共同経済体制はその後の50年間維持し、居住ロシア人は自由に住み続け、二重国籍も可能にする。
50年後の国後、択捉の返還というこの提案は、「択捉島の北に国境線を引き、当分の間4島の現状を維持し、ロシアの施政を合法と認める」という、1998年に橋本龍太郎首相がエリツィン大統領に提示した川奈提案に近い。2島の即時引き渡しにも触れている点は、川奈提案以上に日本に好ましい。日本にとっては、すぐにも受け入れ可能な提案だろう。
ただし、プーチン大統領は川奈提案について、「よく考えられた勇気ある提案だが、ロシアは受け入れられない」として拒否。その後は「4島領有は大戦の結果」とし、歯舞、色丹引き渡しをうたった56年宣言を履行する用意はあるとの「2島決着」の立場を貫いている。
1990年代の経済混乱期、ロシアの一部改革派学者らが北方4島の返還論を唱えたが、プーチン体制の民族愛国主義全盛の下で、4島返還論は消え失せた。90年代は日本の経済力が圧倒的に優位だったが、日本のデフレ不況、資源価格高騰によるロシアの高成長で、両者の力関係は相対的に接近した。その意味で、ロシア国際政治学会の大御所がこの時期に「4島返還論」を唱えたことは画期的だ。
トレーニン氏は国際的な評価を受けた近著『ロシア新戦略』(作品社)で中国の台頭に伴うロシアの安全保障の脆弱化、過疎の極東開発の必要を強調しており、中国の脅威への配慮が提案の背景にあるのは間違いない。プーチン政権がこの夏、対日関係改善に舵を切ったこととも関連している可能性がある。
ただし、ロシアでは、「4島領有は大戦の結果であり、国境は画定済み」と主張する保守的な主張が支配的であり、トレーニン氏が各方面から非難を浴びるのは必至だろう。論文をめぐるロシア側の議論の行方とプーチン政権の対応が、今後の領土問題の行方に重要な手がかりとなりそうだ。
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名越健郎 Kenro Nagoshi拓殖大学教授
1953年岡山県生れ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社、外信部、バンコク支局、モスクワ支局、ワシントン支局、外信部長を歴任。2011年、同社退社。著書に『クレムリン秘密文書は語る―闇の日ソ関係史』(中公新書)、『独裁者たちへ!!―ひと口レジスタンス459』(講談社)、『ジョークで読む国際政治』(新潮新書)、『独裁者プーチン』(文春新書)など。
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