幼児化する政治とフェアプレイ精神

この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

■幼児化する政治とフェアプレイ精神

できたばかりの石原慎太郎の太陽の党が解党して、橋下徹の日本維新の会と合流。太陽の党との合流話を一夜で反古にされた河村たかしの減税日本は「減税の看板をはずしたら仲間にいれてやる」と恫喝されて落ち込んでいる。渡辺喜美のみんなの党は維新への離党者が続出しているが生き延びるために維新との選挙協力の方向を探っている。

いわゆる第三極政局は「あの業界」の離合集散劇とよく似ている。

党名を「なんとか組」に替えて、笠原和夫にシナリオを書いてもらったらずいぶん面白い映画ができそうである。

残念なのは、登場人物の中に感情移入できる人物がひとりもいないことである。

状況的には河村たかしと渡辺喜美が『総長賭博』の中井信次(鶴田浩二)や『昭和残侠伝・人斬り唐獅子』における風間重吉(池部良)の役柄に近い「引き裂かれ」状態にある。甘言を弄しあるいは恫喝を加えて縄張りを奪おうとする新興勢力に抗して、なんとか平和裏に組を守ろうとするのだが、うち続くあまりの理不尽な仕打ちにぶち切れて、全員斬り殺して自分も死ぬ・・・という悲劇的役どころは彼らにこそふさわしいのだが、ふたりともそこまでの侠気はなさそうである。

この二人を見ていると、級友にいじめられて、「パン買ってこい」とパシリに使われている中学生が、それでも「オレはいじめられてなんかいないよ。あいつら、オレの友だちなんだから。みんなオレのマブダチなんだ」と言いながら、だんだん目がうつろになって、しだいに狂ってゆく・・・という姿がオーバーラップする。

橋下徹という人はほんとうに「いじめ」の達人だと思う。

どうすれば、人が傷つき、自尊感情を奪われ、生きる意欲を損なわれるか、その方法を熟知している。

ある種の才能というほかない。

減税日本とみんなの党の「いじめ」方をみていると、それがよくわかる。

人をいじめるチャンスがあると、どうしてもそれを見逃すことができないのだ。

たぶんこれがこの人に取り憑いた病なのだろう。

テニスで、相手がすべって転んだときにスマッシュを控えるのは英国紳士的な「フェアプレイ」であり、これができるかどうかで人間の質が判断される。

テニスの場合、強打するか、相手の立ち上がりを待つかの判断はコンマ何秒のうちに下される。政治的思量の暇はない。

フェアプレイ精神が身体化されていない人間にはそういうプレイはしたくてもできない。

だから、英国人は「そこ」を見るのである。

テニス技術の巧拙や勝敗の帰趨よりも、そのふるまいができるかどうかが、そのプレイヤーがリーダーとしてふさわしいかどうかのチェックポイントになるからである。

ジョン・ル・カレの新作『われらが背きしもの』に興味深い場面があった。

オックスフォード大学で文学を教えている青年ペリーはバカンスで訪れたリゾート地の海岸で、ふとしたきっかけからロシアの犯罪組織の大物であるディマとテニスの試合をすることになる。

力量の差に気づいたペリーは少しのんびり試合を進めようとした。一方的な「虐殺」ではなく、家族たちが見守っている前で必死で走り回るディマのプライドを配慮して、ゲームらしいかたちに整えようとしたのである。

サイドを変えたとき、ディマに腕をつかまれて、怒声を浴びせられた。

『教授、あんたおれをバカにしたな』

『僕が何をしました?』

『さっきのボールはアウトだった。あんた、それがわかっていたのに、わざと手を出した。おれはデブの半年寄りで、半分死にかけているから、手加減してやろうとでも思っているのか?』

『さっきの球は、ラインを割ったか割らないか、ギリギリのところでしたよ』

『教授、おれは賭けでテニスをやるんだ。やる以上、何か賭けよう。おれが勝つ、誰もおれをバカにしない。どうだ、1000ドル賭けないか?試合を面白くしようぜ』

『お断りします』

『5000ドルでどうだ?』

ペリーは笑いながら、首を振った。

『あんた、臆病者だな?だから賭けに乗れないんだな』

『たぶんそういうことですよ』とペリーは認めた。

そして試合が終わる。ペリーが勝った。ディマはペリーを熱く抱きしめてこう言う。

『教授、あんたはものすごいフェアプレイ精神のイギリス人だ。絵にかいたようなイギリス紳士だ。おれはあんたが好きだよ。』

(ジョン・ル・カレ、『われらが背きしもの』、上岡伸雄他訳、岩波書店、2012年、43~44頁)

この一言がきっかけでペリーとディマはありえないような不思議な絡み合いの中に引き込まれてゆくのであるが、それはともかく、テニスを通じてイギリスの紳士たちは「勝つこと」だけでなく、「どう勝つか」を学習する。

「敗者を叩き潰す勝ち方」ではなく「敗者に敬意をもたれるような勝ち方」を学ぶことが指導者になるためには必要だからだ。

いまのイギリス人がどうかは知らないが、ジョン・ル・カレが遠い目をして回想する大英帝国の紳士たちはそういう勝ち方をパブリックスクール時代に学んだ。

それは理想主義的ということではない。労働者階級や植民地原住民たちを支配する訓練の一環として学んだのである。

自分が上位者であり、相手の立場が弱いときに、あえて手を差し伸べて、「敵に塩を送って」、ゲームのかたちを整えるというのは、実は非常に費用対効果の高い統治技術であり、ネットワーク形成技術だからである。

倫理的思弁が導いたのではなく、統治の現場で生まれたリアルでクールな知恵である。

ただし、重要なことは、それは政治的オプションとして「選択」することができないということである。

脊髄反射的にできるものでなければ、「フェアプレイ」とは言われない。

熟慮の末に、「こうふるまえば自己利益が増すだろう」と思って選択された「敵に塩」的パフォーマンスはただの「マヌーヴァー」である。

考えている暇がないときにも「フェア」にふるまえるか、「利己的」になるか、その脊髄反射にその人が受けてきた「統治者たるべき訓練」の質が露呈する。

ふりかえってわが国の「ウッドビー統治者」たちのうちに「フェアプレイ」を身体化するような訓練を受けてきた政治家がいるだろうか。

繰り返し言うが、それは「上品な政治家」とか「清廉な政治家」とかいう意味ではぜんぜんない。

統治者としてリアルな力量があるかどうかを「フェアプレイ」を物差しで見ようとしているだけである。

その基準で言えば、「政治的技術としての身体化されたフェアプレイ精神」を示すことのできる政治家はいまの日本にはほとんどいない。

ほんとうを言うと、「ひとりもいない」と書きたいところである。

だが、どこかに「フェアな政治家」がまだ絶滅危惧種的に残存しているかもしれないので、そのわずかな希望を「ほとんど」に託しているのである。

繰り返し書いていることだが、また繰り返す。

今の日本の政治システムが劣化しているのは、システムのせいではない。

人間の質が劣化しているのである。

だから、制度の改変や政策の適否について、百万語を費やしても無駄である。

政治的公約や連帯の約束を一夜にして反古にすること、「勝ち馬に乗る」ことを政治家として生き残るためには「当たり前」のことだと思っているような人間たちばかりが政治家になりたがっている。

統治者になるための訓練を受けたことがない人間たちが統治システムに群がっている。

中学生的な「いじめの政治学」には長けているが、「フェアプレイ精神」については聴いたこともないという「こども」たちが政治の世界に跳梁している。

日本の政治は12月の総選挙で少しは変わるのだろうか?

私にはわからない。

これ以上政治が幼児化することがないように祈るだけである。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

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