今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
■人は今も昔も変わらない。変わったという人は昔を知らないだけ
「エンターテイメントとしてのネット「議論」」 2013年02月11日 『BLOGOS』
http://blogos.com/article/55974/
このエントリに佐々木俊尚が「最近のソーシャルメディアでの議論の作法の悪化」について嘆いているツイートが引用されていた。
で、俺もそれについてなにか書こうと思って、とりあえず上記のエントリを読み進んだら、俺が書こうとしていたことがすべて書かれていた。なにを言ってるのかわから(ry
まあ、ようするにむかしのパソコン通信での議論とかを知ってる世代からみれば、「罵り合いは今に始まったことじゃない」という結論にしかならないと思うんだよね。
「最近どんどんひどくなっている」と思う人は、むかしを知らないだけ。まるで思春期にさしかかって異性の素晴らしさを、あたかも自分が世界で初めて発見したかのように、夢中で周囲に触れ回っている少年のよう(笑)。
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「論敵」と言う言葉があるように、そもそもパソコン通信がない頃から、立派な大学の学者先生同士が、苛烈な議論の応酬をしているわけで。そういうご立派な先生方が互いを攻撃するのに「良識を疑う」とか、「初心に立ち返ってみてはどうか」とか、結構辛辣な言葉を吐いている。
互いにこういう本を出し合ってる大学の先生もいるし。
「真実の東北王朝 [単行本]」 古田 武彦(著) 『amazon』
http://www.amazon.co.jp/dp/4397503060
「虚妄(まぼろし)の東北王朝―歴史を贋造する人たち [単行本]」 安本 美典(著) 『amazon』
http://www.amazon.co.jp/dp/4620309796
「「邪馬台国」はなかった (朝日文庫) [文庫] 」 古田 武彦(著) 『amazon』
http://www.amazon.co.jp/dp/4022607416
「邪馬一国(やまいちこく)はなかった (徳間文庫) [文庫]」 安本 美典(著) 『amazon』
http://www.amazon.co.jp/dp/4195986060
歴史に名を残しているような数学者同士も。
たとえば数学に大きな功績を残したクロネッカーは対角線論法を生み出すという功績を残したカントールに対して、論文の内容はむろん人格に対しても激しい批判を行ったという。それがもとでカントールは精神を病んでしまったらしい。世界を引っ張る頭脳であれば自分のポリシーに対する信念や完璧主義もまた並外れたものなのだろう。「間違ってすらいない主張をする人々」 2009年03月16日 『メカAG』
http://mechag.asks.jp/243934.html
自分が最近になって初めて目にしたからといって、「最近になって急に増えている」と安易に判断するのは、まさにその見識を疑わざるをえない。
問題意識を持つのは結構なことだけど、そもそも問題を正しく認識していないのでは、そこからなんら的確な示唆は生まれないであろう。
このへん佐々木俊尚もイケダハヤトと同じレベルなんだよね。残念なことに。
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延々とネチネチネチネチ言われて、だんだんガマンできなくなって思わず怒りをぶちまけて反論したりするとまたそれがネチネチの環を広げるだけの悪循環に。悪意の空間からどう抜け出すのかということがけっこう大きな課題です。
簡単だと思うけどね。ようするにネチネチの応酬を楽しめる範囲なら、楽しんで自分も参加すればいいし、楽しめないレベルになったら、無視すればいい。妙に「我慢するのが正しい」と思うからストレスが溜まる。怒るときも結果を計算の上で怒るべきで、我を忘れて怒りの言動をするのは幼稚。そういう人をコミュニケーション能力のない人というんじゃないのかしらん。でも(これは誰でもそうだけど)自分がコミュニケーション能力が低いとは認めたくない。だから相手が悪いとか社会が悪いとか言い出す。
幸いブロック機能とかコミュニケーションツールも進化しているわけで、ウザいやつはどんどんブロックしていけばいいと思うよ。ノビー(池田信夫)みたいに。
ブロックしたくない、自分は来る者は拒まずの姿勢でいたい、すべてに門戸を開いておきたい、でも不愉快にされるのは嫌だ、というのはワガママすぎ。そういう姿勢こそが議論慣れしていない幼稚さ。そう思うけどねぇ。要するに自分は何もしたくない。自動的に心地良い場になってほしいってことだよね。
そういう人はオープンな世界には向かない。小学校の先生とかのように管理人のいる場の方が心地よいと思うよ。でも仮にもジャーナリストを名乗る人が、そういう管理社会のほうが居心地がいいなんて考えでいいんですかね。しかもそれを自覚していない…。自分勝手な都合を社会正義にすり替えようとしている。
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もとエントリの人が書いていることにまったく同感だ。
厳しいことを記すと、たかだかWeb上での議論の応酬程度で、萎縮してしまったり方向性を見失ってしまうようなひとは、何もしなければそのまま淘汰されるのが自然としかいいようがない。
中には討論をするベースというかお作法をわきまえることなく闘技場に上がって、蹂躙されてしまうような方は見た目かわいそうなのかもしれないけれど、公開の場での論立てに瑕瑾があれば批判があって当然だし、そこで学べないようだったならそれまでの方というジャッジになるだろう。
議論に向かない人がいるのは仕方ない。でもジャーナリストがそうでは、ジャーナリスト失格だと思うよ。ひ弱すぎ。ジャーナリストが誰か自分を守ってほしい、じゃダメだろう。というか単に自分の商売の邪魔になってきたってだけの話にしか聞こえない。
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もうひとつ。相手が不愉快な言動をするのが問題だという人が多いけど、じゃあ本当にそういう人たちが丁寧で礼儀正しい言動をしたら、ちゃんと応対するのだろうか。丁寧だけどおびただしい数の批判的意見に、対処するのだろうか?たぶんしないだろう。問題の本質は「数」なのだ。言動が問題なのではなく、大量の批判が自分に押し寄せることそれ自体が不愉快なのだろう。そこから目をそらしてはいけない。
オープンな場というのは、牧歌的で誰もが幸せな気分になる草原ではない。すきあらば猛獣が襲ってくるジャングルのようなものだ。そういう環境でこそ創造性が育まれ文化や文明が発展していく。
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元エントリのコメント欄に、感情的な議論は不毛で無駄だと言ってる人達がいる。不愉快ってのは自分の感情だってことを忘れてるんじゃないの?不愉快だと感じた時点で、自分が感情的になってるわけ。
んで、その原因が相手にあるんだ、相手が先に攻撃してきたから自分も感情的になってしまうんだ、という考えが、この手の人達に共通にあるんだよね。
要するに自分が悪いことをする(感情的になるのが悪いことだという前提で)のは、相手に責任があるという、非常に都合のいい考え方をなんの羞恥心もなくできる人、自分は常に正しい、と思い込める人、そういう人たちが、こういう主張をする。そういう人間の主張など、どうせ浅薄なものでしかない。
そういう人たちはなにも主張しなくて結構。役に立たないからね。だいたい信念があれば、どんなに批判され罵倒されても、主張し続けられるはず。不愉快にされたから躊躇する程度の主張など、最初から主張しないほうが互いにエネルギーの節約。「不愉快なことは少ない方がいい」とかいう幼稚な考えの人間が語ることなんて、誰の参考にもならないよ。幼稚園の保母さんにでも一生守ってもらったらいい。
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2013年02月26日時点のものです。
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