地球色した海岸の、潮風に抱かれ、地鶏が育つ。
宮崎県日南市。居酒屋“塚田農場”などを展開する、エー・ピーカンパニーが自社農場を持つ街だ。
鶏料理を出すためにヒヨコから育てる、この企業では、「屠殺」という言葉を使わない。
ある社員は言う。
「目的は、殺すことじゃない。食材として生かすことです」
こうした視点に立ったうえで、「屠殺」ではなく「放血(ほうけつ)」と呼ぶのだ。生きたニワトリをおいしい鶏肉にするために、血を抜く作業、ということで。
今回筆者は、新入社員のみなさんと共に地鶏農場と加工センターを訪れ、“生き物が食べ物になるまで”のドラマを見せて頂いた。農場でののどかな様子から、実際に放血をさせていただいた体験レポートまでをお届けしたいと思う。なお、血が苦手な方のために、放血作業の紹介に入る前には注意書きをし、写真は白黒に加工した。
農場の入り口。ニワトリをタヌキから守ってきた、ベテランおじいちゃん犬が警備中である(最近、彼女犬ができたらしい)。
おじいちゃん犬にクンクンされた結果、セキュリティチェックを通過したので、それではさっそく、農場の様子をお届けしよう。
学園みたいな地鶏農場
農場は、鶏の月齢ごとに区切られている。ちょうど、1年生から6年生までの教室に区切られた学園みたいだ。
生後1か月の鶏は、まだピヨピヨ言っている。ホッカイロみたいに温かく、心臓がドキドキしているのを手に感じる。新入社員が抱っこして、ゆらゆら揺らしてあげていたら、うとうと寝ちゃった鶏もいた。まだまだちっちゃな赤ちゃんだ。
先輩鶏のみなさん。焼き鳥を食べている時には考えもしなかったが、ニワトリにも、いろんなキャラのやつがいる。ふかふかの土に座ってのんびりしているやつから、全身ブラックでキメているやつ、いかした髪型で走り回っているやつも。
中には、いじめられっ子もいる。
いじめられっ子の“B品ちゃん”
鶏の世界にもいじめがある。写真の彼女は、生まれつき口が曲がっていて、他の鶏たちにつつき回されボロボロになってしまった“B品”だ。
生産農家の方は言う。
「普段は、エサ箱の下にじいっと隠れてて、人間が来ると駆け寄ってくるんだ。守ってもらえると思うんだろうね。“かまってかまって~”って、長靴をつっついてきたりする」
なんだか本当に、先生に甘える小学生みたいだ。
こうしていじめを受け、ボロボロにされてしまった鶏はどうなるのか。「かわいそうだけど、自然のままにしておく。人間が感情移入して、いじめられっ子を別のところに移しても、また別の鶏がいじめのターゲットになって、出荷できないレベルまでボロボロにされるだけだ」と言う農家さんもいる。しかし、筆者が訪れた農場の場合、いじめられっ子の鶏は、あるところに行くらしい。
“保健室”だ。
ふつうは“工場”、地鶏は“学校”
元・いじめられっ子のニワトリくん。“保健室”と呼ばれる別区画に移され、毎日おさんぽを楽しみながら、立派に成長している。
彼をいじめていたニワトリたちは、6か月で出荷されてしまった。しかし彼は出荷されず、ペットとして飼われることに決まった。名前がすごい。「ボス」という。
ニワトリに名前をつけることについて、ある農家さんはこう語った。
「名前、普通は付けないよ。名前なんか付けたら、お別れがさみしくなるだろ。名前付けるのは、一生飼うって決めた奴だけ!」
そう、長い付き合いなのだ。地鶏は、一般的に大量生産されている鶏の品種・ブロイラーよりも、育成期間が長い。ブロイラーが生後2か月でどんどん出荷していく工場だとしたら、地鶏農場は、4~6か月ほどじっくり面倒をみる学校のような場所である。そのため、ブロイラーに比べて旨味が深く、コリコリとした独特の食感を楽しめるのだ。
成長に合わせたエサを、のんびりつつきつつ、
自分で産んだタマゴを自分でおいしく食べちゃったりしつつ、宮崎のブランド鶏、“みやざき地頭鶏(じとっこ)”は育つ。
ここから先が、加工センターだ。いよいよ放血である。血が写った写真は白黒にしてあるとはいえ、苦手な方は、読むのをここまでにしておいてもいいかもしれない。筆者も正直、「放血なんかしたらトラウマになって、しばらくチキンが食べられなくなるんじゃないか」と恐かった。
だが……やってみた結果、意外な感情が沸き起こってきたのだ。このことを是非お伝えしたく、続いては、放血の様子をご紹介したい。
放血――生き物が食べ物になる瞬間
加工センターに足を踏み入れた。
鶏は、5羽ごとにカゴに入れられている。「コケコッコー!」一羽が鳴くと、みんなが鳴く。
この鶏たちを、一羽一羽、手で抱きかかえては、器具の穴にセットしていく。機械ではなく、ちゃんと手で触れることによって、太り具合や健康状態もしっかりチェックできる。
器具の穴の底からは、鶏の頭だけが出るようになっている。鶏たちの反応はさまざまだ。ジタバタ逃げようとしたり、首を引っ込めようとしたりするやつもいれば、すっかり諦めきって大人しくしているやつもいる。
ここで加工センターの方が、大事なことを見せてくださった。
※以下、放血の模様を写真を交えて紹介します
鶏を「かわいそう」と思う、ということ
「今から、わざと失敗して、ためらい傷をつけるから」
なんでそんなかわいそうなことをするのか、と思った。「いえ、失敗するとどうなるのかご説明いただくだけで結構です」と言い返そうと思ったが、あれよあれよという間に、鶏のくちばしの中にカッターが差し込まれ、浅く傷がつけられた。
鶏は口から血を流し、大暴れした。そのうちに血が固まり、流れなくなる。それでも喉の奥から血があふれてくるので、鶏は首を振り、苦しげに目をつむって咳き込んだ。
「こうなると、肉に血が回ってしまう。お客様においしい肉が提供できなくなるんです」
「苦しそうですね」
「苦しいでしょうね。だから、ちゃんとシメてやらないと、かわいそうなんです」
そう言うと加工センターの方は、苦しむ鶏をその手で押さえ、慣れた手つきで楽にした。鶏の顔が、ずっと安らかになった。
鶏を食べることそれ自体を、「かわいそう」と言う人もいる。それはそれで一つの意見だが、みやざき地頭鶏というのはそもそも、「地頭(その土地の権力者)に献上するほど美味しい」という「地頭鶏」を、宮崎県が食用に交配したことで生まれた品種だ。人間が鶏を食べていなければ、彼らはそもそも生まれていなかったのだ。
かつては自然に死んだ鶏を食べることもあったが、それだと肉の味が落ち、衛生面の不安も生じる。そのため、鶏のくちばしの中にカッターを差し入れて放血を行うのだ。そうすることによって、体表からの雑菌も入りにくく、よりおいしくて安全な肉が食べられる。
「かわいそう」という言葉は、鶏を食べることそれ自体ではなく、「こんなことしたらかわいそう」という自分のエゴで鶏を無駄に苦しめることに使うものではないだろうか。さっきまで苦しんでいた鶏の、安らかな顔を見ていたら、なんだか、そんな気がした。
鶏の首をつかんだ。
自分の手で、放血をする
生きている鶏は、ゴム手袋2枚越しでもあたたかい。苦しまないよう、早く気を失ってくれるよう、ぐっと親指に力を込める。鶏は一瞬私を見て、ぐえっ、とくちばしを開いた。鶏もまた、首に力を込めている。私もいっそう、指に力を込める。
くちばしにカッターを差し込み、奥を切りつける。くたっ、とした。自分の手の中で、鶏の力が抜けるのがわかった。
このあと鶏は、16種類の部位に分けてさばかれる。捨てるところは、頭と羽根と内臓の一部しかないそうだ。
「手を合わせておいで」
加工センターの方は、放血の後、筆者を敷地内の“鶏魂碑(けいこんひ)”にお連れ下さった。鶏の魂を想い、心を鎮めるための石碑である。
二礼、二拍手、一礼。昔ながらの神道の作法で、お参りすることになっている。鶏魂碑には、日本酒が供えられている。
研修の一環として、放血を自ら志望し経験した、新入社員の方にもお話を伺った。
Hさん:「私は農学部出身なのですが、友達がイノシシの解体に携わっていました。今回、私も、放血という貴重な体験をさせていただけるということだったので、この体験を通して“食”ということへの見方が変わるだろうと思い、やらせていただくことにしました。最初は手が震えましたが、躊躇しているほうが、私たちが命をいただいている地鶏に対して失礼だと思ったので、やるしかないな、と思ってやりました。(鶏を)食べる立場、売る立場として、生きるために命をいただいている。ありがとう、という想いで、最後は手を合わせました」
Tさん:「いずれ(塚田農場の)店舗に社員として立った時、アルバイトの皆さんにも、この経験を通して、売る理由というのを明確に伝えられるようにと思って(放血を)やりました。正直、鶏を目の前にして、“ほんまにやるんか”という気持ちになりましたが、中途半端にやられても鶏は死なれへん、かえってきついから、カッター握って、しっかりやろう、と思いました。働くこと、食べることは、生きるためにやること。一次産業、二次産業、三次産業、今まで普通に食べてきた、命ってものみんなに対して、生きさせてもらってる、という感謝で鶏魂碑に向かいました」
居酒屋“塚田農場”のコンセプトは、「祭り」である。農家の収穫祭。生産者の顔が見える食材を、おいしく、楽しく頂こうというテーマで作られている。
放血体験後、意外な気持ちが芽生えた。自分の手で鶏をシメてみたら、鶏を食べられなくなるどころか、「きちんと最後まで頂きたい」と思ったのだ。そこではじめて、なんというか、全部を終えられる気がした。
新入社員は放血後、生産者のみなさんと一緒にバーベキューをして一日を終えた。「放血やってきたのか? すごいな。鶏の生産者でもできないことだ。いや、生産者だからできないのかな」。鶏をかわいがっている生産者さんを目の前に鶏を焼いて食べるのは、なんだかシュールな気がしたが……。「この、炭火焼になった鶏の中に、俺が育てたやつもいるのかもしれない」。お酒でほてった顔で、おいしそうな炭火焼を見る生産者さんの顔は、誇らしげだった。
「おいしい」って言葉、今までは、舌の上で言っていたように思う。でも、生き物がどうやって食べ物になるのかを知ったら、もっと深いところ、本当に腹の底から「おいしい」って言えた感覚があった。
みやざき地頭鶏の祭りは、今日も続いている。北海道で、東京で、日本全国の“塚田農場”で。
写真:筆者撮影
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(執筆者: 牧村 朝子) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか