源氏が主役を張ったお祭りの前日に、正妻・葵の上とと愛人・六条御息所(以下、六条)の間で起こったトラブル『車争い』。源氏は役目を終えたあと、やっとその話を聞いて愕然。慌てて六条に謝罪に行きますが、会ってもらえません。今回は修羅場の後日談から始まります。
トラブルに疲れた源氏を癒やす、2人の女性
自分が蒔いた種とは言え、気が強くて自分から折れない2人だからこそ起きた事故。源氏は妻の葵の上の対応に不満です。
「葵の上は一体何を考えているんだろう。夫と関係のある女性とわかったなら、もっとスマートな処し方があっただろうに。思いやりにかける人だから…」妻と愛人にもっと上手いことやってくれ、という源氏も勝手ですが、たしかに葵の上の対応は貴婦人として正しいのか、ちょっと疑問。源氏にとっては後味の悪い晴れの日になりました。
翌日のお祭りは、源氏も見物客の1人に。「さあ、お祭りを見に行こうね」。二条院の紫の君と一緒です。お付きの女童は大はしゃぎ。紫の君もとっても可愛らしくおしゃれして、源氏は心が和みます。
今日も大路は大混雑で、良さそうな場所は既に埋まっています。「ここらでいいんだけど、騒がしそうだなあ」とブツブツ言っていると、「こちらへどうぞ。場所をお譲りしますよ」。派手な衣装が見え、女性の車のようです。
「ありがとう。こんないい場所をどうやって?羨ましいですね」。源氏が話しかけると「だって、あなたが他の女性とご一緒と知らなかったから。今日はきっとお逢いできると思ってましたのに」。
それは恋のレジェンドこと源典侍。源氏は(あちゃー)という感じで、「あなたこそ、誰とでもデートなさるから、当てにならなくて」と無愛想にいい捨てます。源氏はウザがっていますが、気前よく場所を譲ってくれるあたり、さすがレジェンド。度量の広さが違う!
周囲の人びとは、源典侍のようにはズケズケと言えないものの、源氏が誰と一緒にお祭りに来たのか興味津々。紫の君は心身ともにぐっと大人びてきて、美しく賢く優しい理想的な少女になりつつありました。
このシーンはいかにも重苦しい車争いのお口直しと言った感じ。紫の君の可愛らしさと、源典侍の滑稽さに、源氏も読者も一息つく、といった具合になっています。
「あこがれの従姉」朝顔の君という女性
このお祭り騒動に顔を出す重要人物の1人が、朝顔です。この人は桐壺院の弟宮・桃園式部卿(ももぞのしきぶきょう)という人の娘で、源氏の従姉にあたります。
彼女といつ知り合ったのかは不明ですが、源氏はこのお姉さんの趣味の良さや奥ゆかしさにあこがれをいだき、手紙だけの付き合いを続けています。さりげない手紙も、ひとつひとつ内容が源氏の心を打つのです。
桃園式部卿もこれをご存知で、行列の主役を張った源氏を見て「本当にますます素晴らしくなっていく方だ。お前もずっと手紙をやり取りしているわけだし、彼と結婚したらどうだろう」。
朝顔も、源氏の晴れ姿を見て心が動きますが、結婚する気はありません。というのも、六条が源氏に捨てられたという話を聞いて(あの才媛の六条様が源氏の手に落ち、あんなことになったのだ。うっかり結婚したら、私も二の舞いになるかもしれない。そんなの嫌)。
朝顔も誇り高く、風雅を愛する繊細な女性でした。今で言うカリスマ文化人的な六条には、同性の先輩としてのあこがれもあったのでしょう。その人が源氏のために名を汚し、貶められた事実に衝撃を受けています。
朝顔の心情は、六条がいかに世間から注目されていたか、ということを裏付けています。有名セレブのスキャンダル同様、車争いと六条の身の上がどれほど衆目を集めたか、想像に難くないところです。
物の怪にとりつかれる正妻、愛人の心に芽吹く暗い花
当の六条は、ますます深く思い悩む日々。決定的な出来事が起こったわけですが、まだ伊勢に行く決心もつかず、かといって京に留まる気力もない。寝ても覚めても悩んでいるので、具合が悪く、常に意識がうつろです。
こんなことになったのも、伊勢に行くと言い出してからの源氏の態度が問題だった。六条は思い返します。
「私を捨てて行かれるのも仕方ないと思いますが、最後まで見限らないのが愛情と言うものではないでしょうか」。「行かないでくれ」でも「別れよう」でもない。全く無責任な言い方です。
中途半端な言い方に振り回されて、うっかり見に行ったのが全ての元凶。ああ、もうどうしてこんなことになったのかと、すべてのことが苦しく辛く、身の置き所もなく感じられるのでした。
一方、葵の上は物の怪に取り憑かれて非常に苦しんでいました。僧侶や法師などが次々と物の怪を退散させていく中、どうしても出てこない物の怪が。葵の上の体にぴたりと張り付き、少しも離れることがないのです。
「しつこい様子は並大抵ではありません」という報告を聞いた、葵の上の両親は(きっと、二条院や六条のお方の怨霊よ。恨みも深いはずだから)と考えます。
物の怪退治は、まず祈祷して憑坐(よりまし・降霊をさせる依代。少女のことが多い)に憑依させ、どこの誰だかを名乗らせて仕業を白状させ、退散させます。さながら2時間サスペンスのラストのようです。物の怪退治に定評のある僧侶を呼んできて、住み込みで昼夜お祈りをさせるので、その費用もとても大変だったとか。
僧侶たちは物の怪に正体を吐かせようとしますが、具体的なことは不明。ただただしつこく取り憑かれ、葵の上は胸が苦しく泣いてばかり。一体どうなってしまうのか、源氏も心配でほとんど二条院にも帰らずに詰めています。
世間の人びとも葵の上を心配し、桐壺院からもひっきりなしにお見舞いが。六条はこの話を聞いても不快。(自分だってもともとは皇太子妃という身分なのに、あんな恥をかかされた後、世間の人は葵の上のことばかり心配している…。)
六条の心がそれほどまでに深く傷ついているとは、左大臣家の方では誰も思わない。源氏は時間を見つけて六条に会いに行き、葵の上のこともすっかり話して「あちらの両親がものすごく心配しているので。どうか寛大な気持ちで待っていて下さい」などといいます。
逢ってしまえば、六条は恨みも忘れ、源氏と到底別れられそうにない。(奥さんとの間に子どもが生まれたら、ますます愛人への愛情なんて薄れてしまうだろうに、私はまだこうやって毎日、彼を待って暮らすのだろうか…。)
源氏から送られてきた後朝の文には「妻の具合が悪いので行けない」。どうせくる気なんかないのに、嘘の上手な言い訳ね、と思いつつ、暗い返事を贈ります。
源氏の不誠実さを恨みながら、やっぱり逢ってしまうと源氏を思いきれなくなってしまう。「気持ちなんてそんなに簡単に割り切れない、だからこんなに悩むんだ」ということを痛感します。
冷たく親しみのない正妻、葵の上の本心
源氏の正妻でありながら、なんとなく感情移入しづらい葵の上。河合隼雄は著書の中で、葵の上の「気位高く親しみのない女性」というイメージに疑問を呈した上で、このように語っています。
「ある意味で言うと、葵の上は源氏を一番強く愛した――愛したいと願った――人と言えるのではなかろうか。(略)
彼女は初めて源氏を見た時に、その美しさに全く心を奪われてしまう。(略)自分が年上であるということを恥ずかしいと思った。彼女は全身全霊で、一対一のみの関係で源氏を愛そうとしたのではなかったろうか。」
一方、結婚した時から既に源氏の心は藤壺の宮にあり、自分といながら常に他の女性を想っている状態を直感するのは当然としたうえで、
「葵の上は源氏が好きでたまらない。しかしこんな源氏を愛することができるだろうか。顔を見て自分の想いを伝えようとする以前に、身体のほうがこわばってしまう。当時の男女関係のあり方の中では、葵の上の求める愛はこの世で成就することはない、と言っていいのではないだろうか」と指摘。
瀬戸内寂聴『女人源氏物語』は、登場する女性たちの立場に立って、この物語を見ようとするもので、本書の論と重なり合うところが多く、自分の考えの支えを得たように感じた。その中で「葵の上のかたる 葵」は葵の上の独白の形で、彼女の源氏に対する思いが語られているのだが、そこに述べられている彼女の気持ちは、筆者が感じ取っていることときわめて類似している。(後略 / 源氏物語と日本人 講談社アルファ文庫より一部抜粋)」
私もこの『女人源氏物語』の中の葵の上はとても好きです。妻である孤独と辛さを一手に引き受け、眠っている源氏となら素直に話せる、ちょっと可愛く切ない姿が描かれています。さまざまな想像で補完される楽しみがあるのも、源氏の面白い所だと思います。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
(画像は筆者作成)
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