早くも、桐壺院の崩御から1年。年の暮れに、藤壺の宮(以下、宮)は一周忌を営まれ、続けて御八講(法華八講・数日間にわたり法華経を講じる法会)を催します。一周忌の日には源氏の歌にも素直に返事を書き、さすがの源氏もこの日ばかりは恋心を忘れて、亡き父の冥福を祈りました。
絶対行きたい!セレブが集う一大イベント『法会(ほうえ)』
御八講は、1日めは宮の父帝、2日は母后、3日は院のため…といったスケジュール。非常に荘厳で、お経の装丁、仏様の飾り付けなども、微に入り細に入り美しく整えてあります。もともとセンスの良い宮のこと、今回は特に念入りに準備したので、「まるで極楽浄土のよう」です。
普段は右大臣や太后の顔色をうかがって、宮に寄り付かない貴族や皇族たちも、この日ばかりは大勢参加しました。源氏について作者は「いつも同じことを書くようだが、源氏は見るたびに素晴らしく美しいので仕方ない」。と弁解しています。
現代人にはちょっとピンときませんが、当時の法会というのは一大イベント。会場の飾り付けはもちろん、講師となる僧侶の読経や説法(イケメンとか、話がうまくて声のいいお坊さんなら最高)、そこに集う貴族たちのファッションチェックなど、話題に事欠かない催しだったようです。
特になかなか外へ出る機会のない女性には、貴重なお出かけの機会でもありました。清少納言は宮仕えをする前、大混雑で牛車の中から見物した、貴族の屋敷での法華八講の様子を書いたりしています。
この御八講は、中宮主催ということもあり、清少納言が見たものよりもっとグレードの高い、厳かな感じだったと思いますが、法会の主催者はイベントプロデューサーでもあり、ここでは宮の繊細で高雅なセンスが褒められています。
後にも法会が何度か出てきますが、いい所も悪い所もいろいろと書かれていて、「なににつけてもセンスが評価される時代だったんだなあ」というのがよくわかります。
会場騒然!藤壺の宮、突然の出家
御八講の最終日に、突然、宮の出家が発表されます。誰も知らなかったので、会場は騒然。源氏は凍りついたように固まり、宮の兄(紫の上の父)兵部卿宮は驚き慌てて駆け寄ります。
兄の説得にも耳を貸さず、宮はその場で髪を下ろしました。会場はすすり泣きの声が満ち、兵部卿宮も激しく泣きます。源氏があの日、手に巻き付けた長い黒髪はとうとう、彼女の体から離れたのです。(平安時代なので、ツルツルにはせずボブカット)。
参加者が慰問に行く中、源氏は衝撃のあまり、独り会場に居残って呆然としています。やっとのことで宮の御簾の前へ行き、「どうして急にこんなことをなさったのですか」。
突然の出家に女房たちも戸惑い、バタバタしている中「ずっと考えていたことなのですが、前もって知らせるといろいろ言われて、決心が鈍りそうでしたので」。吹雪が部屋の中に吹き渡り、仏様の御前のお香と、源氏の香りが芳しく漂います。12月(旧暦)の寒い宵のことでした。
やりたい放題の源氏が犯さなかった3つのタブー
源氏は立ち上がれなくなるほどなにがショックなのか。何の相談もなく勝手に出家されたのも裏切りのように思えましたが、何と言ってもわずかに可能性があった、宮との男女関係が完全に絶たれたことです。源氏は生涯において、出家した女性とは関係を持っていないのです。
どの本だったか忘れましたが、瀬戸内寂聴先生が「やりたい放題の源氏が犯さなかった性的タブー」について書かれていました。
・自分の実母や実娘との近親相姦
・出家した女性(尼)との関係
・母と娘両方との関係(いわゆる親子丼)
人妻だの、処女だの、少年だの、父の妃で義母だの、兄の寵妃だの、あれこれやりまくってきた源氏も、この3つに関してはクリーン、というわけです。
当時だって生臭坊主はいたでしょうし、出家した相手と通じる人もいたはずで、「出家=肉欲と無縁の清い生活」というわけではなかったでしょうが、源氏としてはしなかった。宮も、源氏の猛追をかわしつづけるリスクを追うより、思い切って出家して、その立場に守られるのが一番だと思ったのですね。
宮とはもう、永遠に抱き合うことができない。源氏は「捨てられた」という気持ちでいっぱいです。誰でもフラレるのはつらいですが、マザコンをこじらせた源氏にとって、”女性が自分から去っていく”というのは、また特別に嫌なことです。
もっともっと恨みごとを言いたいのですが、女房達が大勢いる上、混乱していてうまく言葉になりません。打ちのめされたまま帰って自室にこもり、一睡もせずにあれこれ考えごとをしていました。
「もう世の中すべてが嫌だけど、息子・皇太子の今後が心配で仕方ない。出家された以上、社会的な立場が弱まるだろう。この上自分まで去っていってしまったら、皇太子のお世話は誰がするんだ」。ここは早めに切り替え、今後も2人の全面的なバックアップをすることに決めます。
『人生万事塞翁が馬』2人の間に芽生えた新しい関係
源氏にとっては最愛の人に捨てられた、衝撃の瞬間でしたが、悪いことばかりでもありませんでした。院の一周忌が明けて歌舞音曲ができるようになったお正月。宮は俗世を離れて、静かに仏様へお勤めをしています。
栄華を誇っていた頃は、コネを求めて多くの人が年賀の挨拶に並んだのに、今は向かいの右大臣家に詰めかけている。やるせない限りです。(去年の源氏の家のデジャヴです)。そんな中、源氏だけが年賀の挨拶に訪れます。
以前は「好きだけど襲われたら絶対ダメ」というところもあり、相思相愛なのにピリピリせざるを得なかった宮。今は源氏が来てくれて素直に「嬉しい」と思え、涙までこぼれます。源氏に直接話す機会も増えました。体の関係がなくなった今、2人はかえって気楽に、正直に接することができるようになったのです。
源氏の恋心はなくなったわけではなく、もちろん寂しいですが、2人にはここからまた別の、精神的な愛の世界が開けていきます。雨降って地固まるというか、人生万事塞翁が馬というか。最悪だと思ったところから、そこから始まる新しい良いこともある。
セックスだけが愛ではない、というところも含めて、時間の中で変化していく多様な関係を描いていくのが源氏物語の面白いところだと思います。
源氏と周辺の人びとを襲う、更なる不遇の時代
正月の挨拶もさりげなく、源氏は早々に帰ります。年老いた女房は「ハッピーなことだけでなく、辛い思いもなさったせいか、少し影ができて更に魅力的になられましたね」。その言葉に、宮の心に源氏との思い出がよぎります。
彼女の言うとおり、父・桐壺院を失ったこの1年は、源氏とって初めて体験する不遇の時代でした。そして年明けからも、源氏とその周辺は更なる困難に見舞われます。
まず宮。宮の側についていた人たちは、あって当然の出世を見送られ、宮自身がいただくはずのお手当も出家を理由に差し止め。社会的・経済的な制裁を受けます。
宮は「想定内だったけど、私を頼りにしている人びとに申し訳ない。何より皇太子が無事であってほしい」。彼女が感じている罪は2つ、源氏との不義の子を産んだこと、その子を帝位につけようとしていること。宮は「すべての罪は私が負います」と、ひたすらに祈り続けます。
源氏に仕える人びとも、やはり出世を見送られます。源氏は主人として面目なく、やはり今年も引きこもりのお正月です。
義父の左大臣も、世の無常を痛感し辞表を提出。朱雀帝は院の遺言に従い「あなたは父上の頃からの信頼できる臣下です、頼りにしています」と何度も慰留しますが、左大臣は政界を引退します。一方で右大臣は太政大臣に昇格し、まさに「我が世の春」です。
息子・頭の中将は彼の四女(朧月夜の姉)を正妻にしていましたが、もともとあまり仲がよくなかったのもあって、婚家のコネにあずかれず出世見送り。もっとも、気の強い頭の中将は「だからどうしたってんだよ、誰が宮仕えなんかするもんか」。暇をいいことに源氏のところへしょっちゅう遊びに来ます。
2人は、同じく今の政権に干された学者や博士などを集めてゲームやセミナー、音楽や詩の会などを催し、結構楽しくやっていました。もちろん、このことが敵方によく思われるはずもなく…。「ろくに仕事もしないで遊び呆けている」と問題視されるだろう、と、作者の視点から書かれています。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
(画像は筆者作成)
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