背景にあると思われるのは、アカデミー会員にとっての「優れた映画」の定義だ。L.A.TIMES紙の調査によると、アカデミー会員の94%が白人、76%が男性、平均年齢は63歳。一度入会すると永久会員で、新会員は、基本的に、亡くなった会員を補填する形で入れる。昨年のように、意図的に300人を入れることがあったとしても、6,000人強という全体数から見ると、たいした影響は与えない。そして彼らは、トップが外から受けるイメージを心配していようがいまいが、自分の基準にとって優れている映画に投票する。いくら「ストレイト・アウタ~」が批評家から高い評価を受け、興行的に大ヒットしても、ヒップホップの話は、彼らにとって正直なところ、ピンとこないのである。

(中略)

オスカー候補者が全員白人だったのは、アカデミーの人種差別を意味するものではなく、昔のまま凍りついた、ハリウッド映画業界の価値観を表すものなのだ。アカデミーだけでなく、映画界の現状が変わらない限り、「白すぎるオスカー」は、再び繰り返されるだろう。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/saruwatariyuki/20160116-00053472

 アカデミー賞候補者が全員白人になってしまう理由を解説した記事ですが、何となく胸に刺さります。

 アカデミー会員が賞の候補者に白人ばかりを選んでしまうのは、かれらが人種差別主義者だからではなく、ただ新しい価値観が「ピンとこない」からだという話。

 きっとそうなのだろうなあ、と思いますね。

 で、なぜこの話が突き刺さるかというと、自分自身に跳ね返って来る話だからでしょう。

 ぼく自身の価値観だって、いつのまにか年老い、変化を厭い、「昔のまま凍りつい」てしまうことはありえる。いや、すでにそうなっているかもしれない。

 そういう意味でなかなか切実な記事です。

 価値観が年老いるのを防ぐためにはどうすればいいのか。

 それはひとえに新しい作家や作品を発掘し、玩味するということに尽きます。

 特に新しい作品を味わうとき、可能な限り偏見なく向き合うことが必要です。

 「どうせこんなものつまらないだろう」と思って向き合うのではなく、常に新鮮な気持ちで対峙することが重要なのです。

 一定のバイアスを持って作品を味わうことは、何も見ないことと同じです。

 時は過ぎ、恐ろしい速度で作品と作品を巡る状況は変わって行く。だから、いつも新しい作品を発見しつづけることが必要なのです。

 そういう視点から最近の自分を振り返ってみると、つくづくダメだなあと思いますね。

 どうにもよくなじんだ古い作家や作品ばかり追いかけていて、新しい路線の発掘が十分ではないと感じます。

 もちろん、個人的にはよくなじんだ作家/作品のほうが楽しみやすいのですが、そういうものばかり追いかけているとあっというまに価値観は老いてしまう。

 たとえ、いまの自分の価値観とずれているとしても、新しいものを追わなければなりません。

 もちろん、それらすべてを高く評価することは無理でしょう。どうしたって「ピンとこない」作品は出て来るに違いありません。

 しかし、そういう経験も含めて、新しいものと出逢いつづけていかないと、自分自身をアップデートすることはできない。

 そして、自分自身を更新しないことには、常に更新されつづけている時代に置き去りにされるのです。

 まあ、いうは易しで、とてもむずかしいことだと思います。

 ひとは自分が若い頃にふれた作品を神聖視しがちです。

 十代の頃に出逢った作家や作品から最も多くの影響を受け、それ以降の時代の作品に低い評価を与えがちになるのはしかたないことかもしれません。

 ですが、