ある問題に関して議論する必要があるとしよう。そのとき、まずは自分の本当の主張とは逆の立場でスタートするルールでやってみるとおもしろいかもしれない。たとえば原発問題なら、賛成派と反対派を入れ替えて議論するのだ。
最終的には自分の主張に戻ってもかまわないが、とりあえず逆の主張をしてみれば見えてくるものもあるのではないか。少なくとも、あいてがどういうつもりで自分とは逆の意見を主張しているのか推測することはできる。
そこまではいかなくても、自分の頭のなかで主張を逆転させて考えてみることは大切だ。というのも、人間は自分の主張を補強する材料を探しがちな生き物だからだ。いったんある意見にたどりつくと、無意識のうちにそれを強化することばかり考えるものなのだ。
たとえば原発反対と主張したとする(賛成でもいい)。そうすると、その意見の客観的な成否とはべつに、その意見に執着してしまうことがある。つまり「ひっこみがつかなくなる」。だから無意識にその意見を補強する材料を探し、否定する材料は無視する。こうしてひとはどんどん頑迷になっていく。
怪しげなカルト宗教にはまったひとがなかなかそのばかげた教えを捨てられないのはなぜだろう。それも結局、コストの問題が大きいと思う。つまりはその宗教につぎ込んだコストを回収したいと考えているのだ。
全財産を寄進した教えがくだらない戯言に過ぎないと認めることは、だれにとっても簡単なことではない。それくらいなら、教えが本物であるというかすかな可能性にすがりたくなるのが人間心理というものだろう。
将棋の羽生二冠が、何時間もかけてある手を読むと、たとえその手が間違えているということがわかったとしてもなかなかそれを捨てられなくなると言っていた。時間であれ、金銭であれ、労力であれ、いったんコストをつぎ込んでしまうと、ひとはどうしてもその考えに執着するのだ。
羽生さんですらそうなのだから、凡人が簡単に間違いを認めて方向転換することはむずかしい。あるひとに指摘されが、これは経済学でいう「埋没費用(サンクコスト)」の問題だといえる。
サンクコストとは既に回収することができないことがわかっている費用のことである。ひとは高いサンクコストを費やしてしまった場合、そのコストを回収しようと非合理的な行動を続ける。
まして間違いを認めれば責められ、嘲笑われ、一生からかわれるとわかっていれば、だれもその間違いを認めたくなくなるだろう。たとえ内心では間違えたと気づいていたとしてもである。これは非合理的な行動かもしれないが、人間心理とはそういうものなのだから仕方ない。
だからほんとうはひとの間違いを責めず、優しく許容する社会のほうがひとは意見を翻しやすくなるのだろう。その意味でひとを皮肉ったりからかったりして追いつめる言動は、かれらが意見を変えることを阻害していることになるわけで、これも非合理的といえるかもしれない。もしくは最初から批判対象が意見を変えることを求めていないのか。
あるひとがだれかを批判するとき、相手に意見を変えてほしいと思っているのなら、かれが受け入れやすい言い方で批判するべきだということ。だからその場合、とげとげしかったり皮肉っぽかったりする言い方は非合理的だ。
皮肉っぽい批判をするひとの大半は批判そのものが目的化しているのではないかと思う(多くの場合、ぼくもそうだ。つまりは感情の問題なのだ)。
ひとを批判するとき大切なのは、あいてはその意見を発言してしまった時点でひっこみがつきづらくなっているということを冷静に認識し、あいてのプライドを尊重する態度を崩さないことではないだろうか。
もちろん、あいてを全否定して二度と立ち直れなくさせるつもりなら、皮肉を使いこなしてもいい。しかし、あいてとの間に何かしらの議論を成立させたいなら、あいてが取れるようにボールを投げる必要がある。「ボールを取れないのはあいての責任だ」と開き直ればいいというものではない。
逆にだれかに批判された場合、「この批判は説得を目的としているのか、批判そのものを目的としているのか」と見きわめることが必要になるだろう。そして自分がサンクコストの奴隷になっていないか冷静に考えることだ。
賢者とは決して間違えない人間のことではなく、どんなにコストをつぎ込んでいても間違えているものは間違えているとあたりまえのように認められる人間のことをいうのだろう。いずれにしろ、ひとの意見に一喜一憂しているようではまだまだである。
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>「あるひとに指摘されが、」
「あるひとに指摘され"た"が、」?