幼い成瀬順のあこがれは丘の上のお城。
いつか自分もお城の舞踏会に参加できる日が来ることを願っている。
ある日、順はそのお城から父が出て来るところを見てしまう。
なんと、父は王子様だったのだ! 彼女はさっそくそのことを母に告げる。
順は自分が見つけた世界の秘密を共有しただけのつもりだった。
しかし、お城は実はラブホテルであるに過ぎず、父はそこで浮気しただけのことで、その言葉によって彼女の家庭は家庭は崩壊してしまう。
「全部お前のせいだ」。父から告げられた冷たい言葉によって深く深く傷ついた順は、なぞの「しゃべる玉子」と出逢い、言葉を封印される。
しかし、その心の底で想いは募っていくのだった――。
好評を博したテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のスタッフが再結集して制作した劇場アニメーション『心が叫びたがってるんだ。』は、そんなシチュエーションから始まる。
この時点で「トラウマと癒やし」の物語であることは想像できることだろう。
陳腐といえば陳腐な設定であり、しかも物語はその枠組みから特に外へ出ることはない。
それにもかかわらず、『心が叫びたがってるんだ。』はアニメーションの歴史が記憶するべき傑作に仕上がっている。
素晴らしいものを見せてもらった。もう、上映中ぼろ泣き。
この感動をだれかに伝えたくて仕方ないので、記事を書くことにしたい。
『あの花』のスタッフが作った劇場映画ということで注目された作品であるわけだが、個人的には『あの花』の10倍くらい感動した。
洗練されたシナリオといい、抑えたなかにも情感を秘めた演出といい、もう文句なしの出来。
劇場で映画を見るという体験がどんな至福を意味するものか、ひさしぶりに思い出させてくれる作品だった。
物語の主人公は、先ほどの成瀬順を初め、坂上拓実、仁藤菜月、田崎大樹の四人。
偶然に高校の「地域ふれあい交流会」の実行委員に選ばれたかれらは、いやいやながら活動を開始する。
そして、クラスは「ふれ交」でミュージカルを上演することに決まり――と、物語は進んでいく。
初めはひとり残らずやる気がなかったクラスに、しだいに情熱が伝染していくプロセスが熱い。
おそらくぼくが高校生だったとしても、「めんどうくさい」、「恥ずかしい」と感じ、やる気を出すことはできなかったことだろう。
だが、いまにしてわかる。こういうものは真剣になってやっておく価値のあるものなのだ。
もちろん、成し遂げたところでなんの意味があるのかといえば、何もないかもしれない。
とはいえ、そんなふうに考え、白けてしまっては何も始まらない。
くだらないように思えることでもとにかく参加してみる、そこからしか物語はスタートしないのである。
ここには非常に現代的なテーマがある。
つまり、これもまた、この行き止まりの時代をどう生きるかというテーマのひとつのバリエーションなのである。
くだらないと思えることでもまずは必死になってやってみること。
頭からばかにして否定するのではなく、とにかく参加して本気で楽しもうとしてみること。
思い出はそうやってできるものだ。
この映画のメインイベントは、いってしまえば、たかが高校の交流祭の公演である。
べつにそれをやり遂げたところでスターになれるわけでも、お金が入るわけでもない。
しかし、まさにそうであるからこそ、本気でやってみる価値があるのだ。
ぼくはここでわが最愛のPCゲーム『らくえん』を思い出した。
あの物語における目標は、売れないエロゲの制作だった。
それは高校でのミュージカル公演とはまったく違っているように見えるかもしれないが、本質的には同じことを目ざしているのだと思う。
まったく無意味なことに全身全霊をささげることによってしか見えてこない境地があるということ。
意味を問い、価値を考えるなら、そもそもぼくたちの存在になんの意味があるだろう?
広漠たる百億光年の大宇宙の片隅で、一瞬の火のようにともっては消えていくだけのぼくたちではないか。
そのぼくたちの生に値打ちがあるとすれば、それはその短い人生を強く強く燃やし尽くすからに違いない。
重要なのは、すかしてみないことなんだ!と僕はそこで悟ったんですよ。
斜にかまえて、こんなことやる意味がないとか、そういう先回りを考えてはだめで、とにかく、何でもやってみる、コミットしてみる、、、、やることがなければ、テキトーなことを思いついたら全力で、それが意味不明で価値がなくても、、、というかなければないほどいいかもしれません。やってみる。ここで重要な気づきは、もし目的に囚われた人生の奴隷になっている人は、むしろ無駄だと思えること、意味不明なこと、やると損なこと程いいんだってことです。意味不明なことに、死ぬ気で斜め上を行くような気持ちで全力でコミットしてみることが、自己の解放をもたらし現状にブレイクスルーをもたらすことなんだって!ていうプラクティカルな気づきです。
平凡な人生に火をともせ。
自分自身の心の声に耳を傾けろ。
何もかも無意味だと呟く連中を無視して、人生を楽しく、面白く、塗り替えろ!
しかし、夢中になって始めてみたところで、すべてがうまくいくわけではない。
もともとやる気がなかったクラスメイトたちを結集することは容易ではない。
かれらは何かあると疑問を抱き、やる気を失い、バラバラになろうとしてしまう。
そんなかれらに想いを伝えるのが、即ち、言葉の力である。
この映画ではひとを導き、正す言葉の力がストレートに描かれている。
順は言葉を喪い、語ることができなくなってしまったが、それでもなんとかして自分の想いを伝えようとする。
坂上も、田崎も、いつももどかしく正しい表現を探しながら言葉を扱っていく。
物語の重要なパートで、かれらの言葉はしばしば危機的な状況を救い、悪い方向へ進みそうになった状況を変える。
ここには、作り手の言葉への絶大なる信頼があると思う。
言葉こそがひとを救い、また変えるものなのだという確固たる信頼。
しかしまた、順がかつて平和な家庭を崩壊させてしまったように、言葉にはひとを傷つけ、悪しき感情を呼び覚ます負の側面もある。
ここで描かれているものは、言葉の持つ両義性なのだ。
ひとたび言葉を開放してしまったなら、それは時に呪いと化し、ひとを責め、傷つけ、縛りつける。
だが、それでもなお、言葉なしで生きていくことはできない。
なぜなら、いつだって心が叫びたがっているのだから。
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