僕は友達が少ない (11) (MF文庫J)

 平坂読の代表作『僕は友達が少ない』、通称『はがない』の最終巻を読み終わりました。

 面白かった! ライトノベルの一時代を画した作品として迎えるべき終幕を迎えたように思います。ありがとう、ありがとう。

 シリーズ通して素晴らしく面白かったです。

 それにしても、Amazonレビューのあの酷評の山はなんなのだろうな。

 読んでいるとげんなりしてくるので途中で読むのをやめてしまったけれど、あれはさすがに不当な評価が多いのではないかと思う。

 いつも思うことだけれど、ネットでレビューを書く読者層ってほんとうに保守的。

 ほとんど冒険も実験も許さないように見える。

 もちろん、個々の意見としては素晴らしいものもいくらでもあるのだろうけれど、総体として見ると、やたらに保守的だなあという意見になりますね。

 まあ、一般の読者はこんなものなのかな……。

 平坂読さんは世間に認められづらい作風で実に可哀想です。

 だれにでも書けそうに見えるんだろうなあ。じっさいにはものすごい才能と修練の結晶なのだろうけれど。

 この「「このくらい自分にだって書ける」と思わせる小説がベストセラーになる」という事実は何十年か前に中島梓が『ベストセラーの構造』で指摘していまして、けだし慧眼だったな、といまにして思います。

 まあ、このレビュー群だけではなく、最近、ネットでひとの意見を読みつづけることに神経が耐えられなくなって来ているぼくがいるのですけれど。

 あるいは退歩なのかもしれませんが、読めば読むほどにげんなりしてしまうのですね。

 なんだか何もかもどうでもいいように思えて来てしまう。

 だれもが自分だけは正しいと考えて、他人の非を鳴らしてばかりいる。そんなふうに見える。

 いや、べつだんぼくひとり高みに立つつもりはなくて、ぼく自身が何かひとことでも言葉を口にした途端に、そのどうでもいい正当性の競争に巻き込まれているのです。

 うんざり。

 それではどうすればいいのかというと、結局、沈黙するしか方法はないのかもしれない。

 無言の者だけが賢者でありえる。何であれ口にした瞬間に、その言葉の成否を巡っていさかいが始まる。

 どうでもいいといえばどうでもいいが、どうにも疲労させられる話です。

 ほんとうに自由でありたいのなら、黙るしかないということ。

 うーん、憂鬱な結論だね。

 もちろん、そうだからといってぼくなどは黙り込むわけにもいかないので、自分の責任のとれる範囲内で発言していくつもりであります。

 しかし、自分のいっていることがすべてではないということはどうにか自覚しておきたい。

 これがじっさい、むずかしい。

 世の中には、たしかに間違いなく正しいと思えることがあって、そういうことですら意見は四分五裂する。

 そしてまた、どうしようもなく間違えていると思えていることもあるけれど、そういうことさえ正しいと主張する人がいる。

 1000人いれば、1000通りの意見があるのが現実。

 しかし、ぼくも含め、ひとはそれを単色に塗りなおさなければ気が済まない性質があるようです。

 ひとが何か間違えたこと(と、自分には思えること)を主張するのが気に食わない。

 原発を停止しつづけるべきなのは(あるいは、再稼働させるべきなのは)あきらかなのに、それがわからない人物の愚かさが気に入らない。

 それが有名人だったりするとなおさらいやになる。だから、その意見を否定して、世界を正常に戻してやらなければならない。

 そういうふうに信じて、どれだけの人が泥沼の論争にひき込まれていったことでしょう。

 何がいいたいかというと、もうネットで自分の意見の正当性を巡っていい争うのはやめようということなんですけれどね。

 自分は正しい、正しい、正しい、お前は間違えている、間違えている、間違えている。

 そんなことを繰り返しいいあって何になるというのか?