安田浩一『ネット私刑(リンチ)』を読んだ。
正義は血を求める。
安田浩一『ネット私刑(リンチ)』を読んだ。
長年、ヘイトスピーチ問題に取り組んでいる著者が「ネットを利用した個人情報晒し」について語った一冊である。
テーマはズバリ、「インターネットの暴走する正義」。
最初から最後まで延々と暗鬱な話が続く。読んでいてどうしようもなく気が重くなる本だ。
本書には、見ず知らずの人間を罵倒し、揶揄し、攻撃してやまない人間が多数登場する。
そういった人物たちの正体は何者か。ぼくやあなたの隣にいる「普通の人たち」なのである。これで気が滅入らずにいられるだろうか。
しかし、すべてはわかっていたことだ。
「普通の人たち」こそ最も怖い。最もおぞましい。
そして、ぼくやあなたにしてからが、そういう「邪悪な凡人」にならないとは限らないということ。
人間の底知れない醜さと邪さを思い知らされ、しかも他人ごととして処理することを許されないという意味で、ほんとうに重たい一冊だった。ぐったり。
それにしても、人はなぜ、ネットを利用して「悪」を狩ろうとするのだろうか。素直に司法に任せておくことはできないのか。
できないのだ。なぜなら、司法による裁きは何千年にも及ぶ検討の末にできあがったもので、苛烈な制裁を望む者にしてみれば甘いのである。手ぬるく感じられるのだ。
また、司法はすでに腐敗していて、正義を行うのに十分ではないという疑いもある。
見なれた退屈な陰謀論ではあるが、その種の意見が「正義」を求める。一点のしみもない酷烈きわまりない「正義」を。
それは見方を変えればきわめて悪質かつ醜悪な「私刑」にほかならないが、その種の「私刑」を実行しようとする者にとってはその残酷さは必然である。
なぜなら、少しでも妥協してしまったなら、その「正義」は意味を失うからだ。
どこまでも濁りのない純色の「正義」こそが求められている。
そして、その「正義」の執行においては、法的に定められている手順はスローに感じられる。
たとえば「性犯罪者は全員死刑にしてしまえ!」といった極端な主張を展開する際、「いや、性犯罪者にも人権があって……」といった主張はいかにもまだるっこしく感じられるに違いない。
だから、手順はすっ飛ばされることになる。手順を踏むのは面倒くさいのだ。
ほんとうはその省かれた部分こそが致命的なものであるのかもしれないのだが、「正義」に酔いしれている人々はそのことに気づかないし、気づきたいとも思わない。
こうして、「炎上」事件が起こる。やり玉に挙がるのは、特定の犯罪者やその家族、共謀者、とされる人たちだ。
火のないところに煙は立たないはず
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