坂爪「これさ、俺は『半分同意、半分違和感』って言うのが正直な感想で、半分の同意は『そう言う生活を既に手に入れている漁師は非常に豊か!』ということで、根本的に、自分で自分の人生は最高だと思っている人は、その時点で(他の人間がとやかく言うものじゃないし)勝ち組だと思っているのね」みっつ「はい」坂爪「でね、半分の違和感は自分自身に対してなんだけど、『幸せな日々に飽きることはないのかな?』っていうことなの。毎日シエスタをして、自然を楽しみ、仲の良い人達とのんびり過ごす時間は絶対に豊かだと思うけど、もしも自分だったら『絶対にもぞもぞしてくるだろ!』って思うのね」みっつ「はい」坂爪「男の子的なもぞもぞ感、とでも言いましょうか。確かに幸せなんだけど、幸せなだけじゃ足りないんだよ。毎日同じことをしていたら必ず飽きるし、『新しい何か』をしてみたくなると思うんだよ。世界にはまだ俺の知らない面白い場所があるはずだ!って、俺は絶対に思っちゃう気がするんだよ」
どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。
「いばや通信」のこの記事が非常に面白かった。
ここで坂爪さんは「漁師とコンサルタント」という有名な寓話を取り出してこう書いている。
まさにいまのぼくのことだな、と思う。
家はあるし、そこそこの収入もあるし、友人はたくさんいるし、娯楽もたくさんあるし、とても幸せなのだけれど、同時に「やることがない」という退屈さの地獄に閉じ込められた感がある。それがぼく。
もちろん、あまりに忙しいとそれはそれで苦しいことになるのだが、暇すぎることも楽ではないんだよね。
まあ、真面目に働いている人たちからすれば何をほざいているんだと思う悩みかもしれないが、しかし、この問題、リンク先で坂爪さんが書いている通り、本質的なものだとも思う。
「幸せなだけじゃ足りない」。
たとえ贅沢といわれようと、それはほんとうのことなのだ。ひとは幸福なだけでは生きていけないのである。
じっさい、ポジティブ心理学の本などを読むと、宝くじがあたった人の幸福度は予想されるほど高くないらしいということが書かれている。
その反対に、事故などに遭って障害を負った人の幸福度も意外に低くないようだ。
もちろん宝くじがあたった瞬間は嬉しいだろうし、怪我を負った瞬間は嘆くことだろうが、それらは長くは続かない。
ひとは幸運であれ、不運であれ、あっというまに慣れてしまう。そういう事実があるのである。
だから、ひとは「幸福」にも慣れるし、飽きてしまう。
子供の頃は「学校に行かずに漫画だけ読んで暮らせたらどんなにいいだろう」と思ったものだが、じっさいにそういう暮らしをできる身の上になってみると、やはり飽きるのである。退屈するのだ。
ニートをしていると、どうしてもこの問題に対する答えを出すことを求められる。
ニートブロガーのPhaさんは、一箇所に常住するのが良くないと考えて、他拠点生活をすることにしたようだ。
それが正解なのかはどうかはぼくにはわからないが、とにかく常に新しいことをしていないと退屈するというのが人間のさがであるらしい。
これは非常にむずかしい問題である。なぜなら、この問題に対しある対策を見つけ出して実行したとしても、それがあたりまえになるとやはり慣れ、飽きてしまうからだ。
この退屈という名の地獄に耐えることができる、あるいはそもそも退屈さを感じない能力が、即ち「無職の才能」なのだろう。
しかし、だれもがその種の才能に恵まれているわけではないし、坂爪さんのように大人気ブログの管理人になれるわけでもない。
それでは、どうすればいいのか?
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