アイの物語 (角川文庫)

 海に沈む夕焼けを見るために海岸まで歩いて行って来た。

 結局、雲が厚く、夕日が沈むところは見られなかったけれど、落日に照らされた雲が一刻一刻と色を変えるさまはうつくしかった。

 いいものを見た。またこんど、晴れた日にここを訪れよう。

 さて、いうまでもないことだが、海岸の夕焼けなんて見たところで一銭にもならない。

 また、だれかに褒めてもらえることもありえない。無意味といえば、この上なく無意味な行為だ。

 しかし、そうはいっても人生を多少なりとも豊かにするのはこういう無意味なことの積み重ねなのだろう。

 幸い、売るほど時間があるぼくはいくらでも無意味な行為にいそしむことができる。

 だから、テトラポットの上に座り、道すがらセブンイレブンで購入したサラミとチーズを食べながら落陽の芸術に感嘆したのであった。

 いや、しかし、海岸まで歩いていけるところに住んでいるというのは贅沢ですね。

 それにしても、「意味」とはなんだろう?

 世の中には、さも深い意味がありそうな事柄がたくさんある。だが、じっさいにはそれらにたいした意味などありはしない。

 人類の存在にしてからが、進化の樹形が生み出したある種の偶然の産物であるに過ぎないわけで、それ以上でも以下でもないのだ。

 そうであるからには、個人の社会的使命がどうとか、失笑するしかない出来の悪いジョークでしかありえない。

 べつだん、ある個人がどうがんばろうと、がんばるまいと、社会全体に大した影響を及ぼせるわけではない。

 また、いくらか影響を及ぼせたところで、それにさしたる意味があるわけではないのだ。

 ぼくのいうことはいくらかニヒリズムめいて聞こえるだろうか。そうではない。

 まともに現実を直視するのなら、ひとのやることなすことに格別の意味がないということには向き合わざるを得なくなる。

 あたりまえのことだ。天までそびえ立つビルになんの意味がある? 海底を貫通するトンネルにどんな意味があるというのか?

 それらは、ひとの力の巨大さを示すある種のモニュメントであることはたしかだろう。

 しかし、それも、ただそれだけといえばそれだけのことだ。しょせん時の波濤にさらされればいつかは崩れゆく砂の楼閣であるにすぎない。

 そして、そうであって何が悪いというのか。

 ひとのやることがすべて無意味だとしても、だからそこに価値がないということにはならない。

 価値はある。あきらかにある。より正確にいえば、そこに価値を見いだすことは可能なのである。

 なぜなら、価値とはひとがさだめて見いだすものにほかならないからだ。

 もしそこに「すごいものを作ったものだ……!」という感嘆があるのなら、意味などなくてもなんの問題もない。

 ミケランジェロのピエタにそれが生み出されなければならなかった宇宙的意義はあるだろうか?

 もちろん、あるはずもない。しかし、それはどこまでも気高く美しい。ただそれだけで十分ではないか。

 この先、人工知能が発達していくと、いままで人間しかできなかったことすべては機械によって代替可能になるだろう。

 「人間のみが持つ人間らしさ」という幻想が剥がれ落ちてゆくわけだ。

 それは絵画や音楽といった芸術分野をも含むに違いない。人間はここで「すべてにおいて機械に追い抜かれた自分たちの存在になんの意義があるか?」という問いと向き合わなければならなくなる。

 山本弘のSF長編『アイの物語』では