弱いなら弱いままで。

宝くじをあてた人が必ずしも幸せになれないのはなぜか。

2015/05/02 14:04 投稿

  • タグ:
  • 幸福
  • 幸福論
 最近、読者の需要を無視して好き勝手に記事を書いていますが、もうひとつ書きたい記事を書いておきたいと思います。

 いや、こういう記事って、自分のために書いている側面が強くて、書いてまとめないと思考を先に進めることができないんですよね。

 なので、読むほうが面白いのかどうかはわかりませんが書き記しておきたいと思います。

 ぼくは最近、かなり理想とする「幸福な人生」のヴィジョンに近いところに来ていると思うんですよ。

 そこそこ使えるお金はあるし、友達はたくさんできて社会性は満足しているし、時間は余っているので好きなだけ本は読めるし、ほぼ理想的な生活を実現したといえる。

 唯一足りないのは恋人くらいでしょうか。まあ、それ以外はほぼ欲しいものをそろえられたと思うのです。

 でも、心のどこかで「まだ何か足りない」、「そこそこ幸せではあるが、十分とはいえない」という思いがのこっている。

 なぜなのかな、とずっと思っていたんだけれど、最近考えるのは、やっぱり身体性が充足していないのかな、と。

 ぼくの希望をそのままに叶えていくと「一日中部屋で本を読んでいたい」ということになるのだけれど、それではやはり不足なのでしょう。

 ほんとうに十分に幸せになるためには、からだを動かすことも必要なのでしょうね。

 というか、ある方向に偏った内容で人生を充実させようとすることは間違えているのかな、という気がしています。

 前の記事で「幸せになるためには感性をオープンにしなくてはならない」と書きましたけれど、結局、それも程度問題であるわけです。

 感性が大事だからといって知性をなおざりにしてはやはり何かが狂ってくる。

 あるいは、趣味に没頭できるからといって仕事を放り出してしまってはどこか満足しきれないことになる。

 つまり、大切なのはバランスであるという結論になりそうなんですよね。

 知性と感性、精神と身体、趣味と仕事、欲望と自制、インドアとアウトドア、そのバランスが取れていないとあまり幸せにはなれないのかな、と。

 たとえば仕事一筋で生きるのはいいのだけれど、それだけだといかにもバランスが悪い。

 天秤の一方に仕事を載せるなら、やはり他方に趣味とか家族とかを載せないと平衡しないと思うのです。

 もちろん、意図してバランスを崩す生き方もある。ほかのあらゆるものを犠牲にしてある道を究める、というような。

 たとえばからだを壊すことを心配しすぎていたら一流のアスリートにはなれないこともほんとうかもしれない。

 しかし、 

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