差別の構造――自分の価値を証明するために、だれかを見下さずにはいられない心理について。
どもです。地球では色々な出来事が起こったりしているようですが、ぼくは相変わらず自室にこもって本を読んでいます。
しかし、さすがに厭になって来たので、そろそろウッキー!と叫んで本を窓から投げ出したりするかもしれません。いやー、毎日毎日ひたすら読書していると、いくら好きでやっていることとはいえ、やっぱりストレスが溜まりますね。
ぼくの場合、「仕事」と「趣味」が限りなくニアで、本を読むことがそのいずれにあたるかはっきりしないということもあります。
「書くこと」だけが仕事だと考えるなら、読書はあくまで趣味だけれど、何かしらインプットしつづけていないとアウトプットできなくなることもほんとうなんですよね。
だからといって、「これも仕事だ!」といい切るのもどうかと思うし、悩ましいところ。まあ、ここらへんは「いちばん好きなこと」を仕事にしてしまった人間に特有の悩みであるのかもしれません。
さて、先日の記事で、ぼくは、いまの読書テーマとして、「ヤンキーとサブカルとオタクの歴史」と、「初音ミク(新世代のオタク文化)」があるということを書きました。
この時はこういう書き方をしたわけですが、ようは「若者文化の歴史と現在」を知りたいわけです。ぼくはいつのまにか36歳になってしまって、さすがに若者といいはるのも苦しい年代なのですが、でもやはり若者文化にはシンパシーがあります。
たとえ、それがぼく自身が若かった頃とは内容的に様変わりしてしまっているとしてもです。いいえ、むしろ様変わりがあるからこそ、「いまどうなっているのか?」ということを知りたいのかもしれません。
ひとは往々にして自分が若かった頃の文化を最上のものと思い込みますが、「いま」から切り離されてしまったら、もうリアルタイムで文化の変遷を楽しむ歓びは得られません。
ここらへんのことは先日読み上げた『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』に加え、『おたくの起源』、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』、『「若者の現在」 文化』といった本を読むと、だいぶわかってくるような気がします(たぶん)。
ほんとうはこれに加えて若者論の本を何冊か読むといいのだろうけれど、それはまあ後でいいや。
オタクに注目して語るなら、ようは「「おたく」という言葉が作られるまでにどういう背景があったのか?」、「そして、それはどのようにして流通し、いまどうなっているのか?」という話です。
まあ、ここらへんはぼくも当事者として関わってきたことではあるのですが、自分ごとだからこそ客観的に見れないという一面もあるので、ちゃんと資料にあたってみる必要があります。
このテーマはあと数日で記事になると思うので、もう少々お待ちください。
いや、しかし、歴史を振り返ってみるほどに、20年以上差別されて来た「「おたく」と名指された人々」に対する同情と共感が湧いてきます。
なんでただアニメ番組を見ているだけでボロカスにいわれないといけないのか、さっぱり理解できませんが、差別とはそういうものです。
人間は「我々」の偉さ、美しさ、格好良さ、趣味の良さといったことを証明するために、その正反対の属性を持つ「奴ら」を必要とします。
そうやって、だれかを見下すことによって初めて自分の価値を実感することができるのです。これ、小はオタク差別ですが、大はたとえばオリエンタリズムになったりします。
ひとは放っておくと「我々」の文化はより優れていると思いたがるものなのですねえ。恐ろしい話。
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