熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』読了。ここ最近、何となく読書意欲があって、1日2冊か3冊くらいのペースで読んでいっているのですが、そのなかでもこの本は良かった。色々なことが非常に明快になりました。
近年は、オタクが死んだ・サブカルは終わった・ヤンキーがマイルドになったと言われていますし、実際、地方の国道沿いや郊外では、オタクともサブカルともヤンキーともつかない若者を多数みかけます。そうした現状を、オタク論・サブカル論・ヤンキー論それぞれ単体で論じるのは難しく、どこか不自然ではないかと私は思い続けていました。本書では、それぞれに尖っていたオタク/サブカル/ヤンキーが大衆化していくプロセスを振り返りながら、かつてサブカルチャーに求められていたものと現在サブカルチャーに求められているものの違い、一昔前の尖った趣味人の心理的ニーズと現在のハイブリッドな消費者の心理的ニーズの違いについて論じました。現在のファスト風土には、オタク的/サブカル的/ヤンキー的な意匠やコンテンツが溢れかえり、そういう意味では、オタクもサブカルもヤンキーも今が全盛期と言えそうです。しかし、魂としてのオタク・魂としてのサブカル・魂としてのヤンキーはどうでしょう?それぞれのジャンルが融合しながら普及していくうちに、スピリットが失われてしまったのではないでしょうか。控え目に言っても、薄められてしまったものがあるのではないでしょうか。
読まれた方はわかっていると思いますが、未読の方も岡田氏の提示し定義した「知的エリートとしてのオタク」については機会があれば読まれることをお奨めします。(まだ文庫版は入手できますし。)「オタクというのは何か?」をきちんと語り説明し伝えたメディアとしてあの本しかなかったことから、肯定するにしろ否定するにしろ、その後の「オタク論」の起点になっています。そこで提示されていた「本来のカテゴライズでの“オタク”」ってのと、最近多い「アニメを見ているから僕もオタクです。」「ギャルゲーに萌えてるから僕もオタクです。」「フィギュアやグッズをいっぱい買っているから僕もオタクです。」…なんてのは全く違います。フィギュアに関してもそういう人たちが大量にいるというのは以前『食玩テキスト』で書いたとおりですが、その他のアニメなどのジャンルに関しても同じ。「オタク」なんてその程度で名乗れるものではないんですよ。正しい言い方するなら、それらはファンでありマニアでありコレクターです。明らかに視点がクロスしないため、こういう層を僕は最近「ライトオタク」層と呼んで分けています。あるいは「自称・オタク」層。
コメント
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岡田斗司夫の作り出した歪んだヒエラルキーから解放されて清々した海燕でしたとさ
(著者)
もともとぼくはその種のヒエラルキーを認めませんけれどね。