弱いなら弱いままで。

萌え文化と「マッチョなマッチョイズム批判」。

2014/11/02 02:54 投稿

  • タグ:
  • 東浩紀
  • 宇野常寛
 この頃、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』や東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン』、あるいは限界小説研究会『社会は存在しない セカイ系文化論』といった、いわゆるオタク文化批評の本を読んだり読み返したりしています。

 まあ、ぼくもいちオタクとしてそこで取り上げられている作品はほとんど知っているわけで、その内容に賛成するかどうかはともかく、理路がわかると面白い。

 で、宇野さんは東さんの批評を痛烈に批判することで登場したのですが、その理論はぼくから見るといまひとつ納得しがたい。

 じゃ、それなら、東さんのロジックには納得できるのかといえば、それにも違和を感じる。それも前提の、根本のところで「何かが違う」と思わずにはいられないわけです。

 たとえば、東さんは「美少女ゲーム」というジャンルを以下のように定義しています。

したがって、美少女ゲームとは、まずは、プレイヤーを男性の等身大のキャラクターに同一化させ、仮想空間のなかで異性の承認を与え、「モテる男」にしてあげる、すなわち「父」にさせるジャンルだと定義することができる。

 字面だけ追う限りでは特に文句はない、たしかにそのとおりだと思うのだけれど、しかし何といってもぼく自身はそういう「読み」をまったくしない人なので、ものすごい違和を感じるわけなんですね。

 たしかにほとんどの「美少女ゲーム」はそういう目的で作られているだろうし、また消費されているだろうけれど、それにしてもそこには「例外」が常にいるわけなんですよ。

 ぼくなんかまさにその「例外」以外の何ものでもないんだけれど、「美少女ゲーム」をプレイしていて「異性の承認」を得たとか、「父」になりえたと感じたことは一度もありません。

 そもそも、「主人公=語り手=視点人物」と自己同一化した経験がない。仮にそういうプレイスタイルを「マッチョな読み」というとするなら、ぼく自身はまったく「マッチョな読み」をしていない。

 したがって、「美少女ゲームとはマッチョなゲームだから良くない」といわれても、まったく納得することができない、どうしてこの人たちはそういう「読み」だけを当然の前提として話しているんだろうな、と限りなく疑問に思わずにはいられないわけなのです。 

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