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ただ単に「いやー、良い出来だね」、「とても良く描けているよね」という作品は数あるながら、読み手の魂を抉るかのような本物の最高傑作はまず、めったにあるものではない。
いや、それだけならあるのかもしれないが、そういう作品が正しくぼくのところに届き、この心臓を響かせるという「体験」は、どれだけ繊細にレーダーを張っていても、まず1年に1回あるかないか。ぼくの全人生でもおそらくはそうそうあるものではありません。
しかし、いま、この奇跡の物語の全貌を読み終えたいま、悲劇の王ローズレッド・ストラウスの人生のありようにさめざめと泣かずにはいられません。
ペトロニウスさんが既に書いていますが、何という気高さであり、崇高さであり、そして何と美しい生涯なのでしょうか。
「うらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください。」ではありませんが、あまりにも偉大なヴァンパイア最後の王に、花を贈りたいような気持ちです。
しかし、これは――何をいってもネタバレになってしまうなあ。何をいってもネタバレになる、ということですらネタバレになってしまう。あまりにも端正に組まれた秀抜なシナリオは、ちょっと簡単に語り尽くせるものではありません。
いずれ語る機会もあると思うのですが、いまはとにかく何もいいたくない。そこで、その背景となっている、ペトロニウスさんがいうところの「ヒーローものの系譜」についてちょっと語っておきたいと思います。
何か最近になってようやくここらへんのことについて自分なりの言葉で整理できるようになったと思うんですよね。あらためて腑に落ちたというか。
それにしても、いつものことですが、ぼくが書こうとしていることをわかってくれる人が、果たしてこの文章を読んでおられる方のなかにいるのだろうか、と考えずにはいられません。
自分自身にとってすらきわめて茫漠としていて、捉えどころがない話でしかないわけですからね。ただ、ぼくに見えている景色を、幾人かの人には共有してもらいたいと思うので、それで書くのですが、ほんとうに伝わるものなのだろうか? わからないですね。でもまあ、書きます。
さて、ペトロニウスさんは良く「ミクロとマクロ」がリンクしていて、しかもバランスが取れた物語が見たい、という意味のことをいいます。
ぼくもまったく同感です。ぼくにとって良い物語の条件があるとすれば、それはミクロとマクロの相克が描けていることだ、といってもいいかもしれません。
ミクロに寄りすぎても、マクロに寄りすぎても、一般的/普遍的な評価はともかく、個人的な評価としては高いポイントは稼げないようです。
それでは、そもそもぼくはミクロとかマクロとかいう言葉で何をいい表そうとしているのか? ペトロニウスさんはおそらく経済学からこの概念を持って来たと思うので、ぼくとは解釈が違うかもしれませんが、ぼくなりの言葉でいうと、つまりこの場合のミクロとは個人が個人のみで影響を及ぼせる世界で、マクロとはそれを超えた広大な世界のこと、ということになります。
こう書いた時点で既に問題含みの定義だという気がしますが、まあ先を続けましょう。
まず常識的なところをさらっておくと、個人は世界に比べて矮小な存在です。個人がその意志だけで世界の命運を決定したり、銀河の運行を左右したりすることは、基本的にはできません。
基本的には、と書くのはそういうことが起こる物語が現実にいくらでもあるからなのですが、とりあえずはそういうものだ、ということにしておきましょう。
つまり、個人が決定し左右できる範囲は世界全体と比べてきわめて小さく、狭いのです。それが「ミクロの世界」。この小さな世界を描いているのが「ミクロの物語」です。
日常ものとか、学園ラブコメとか、あるいはサラリーマンの悲哀がどうとか殺人事件がどうとかといった話はすべてこの「ミクロの物語」に含まれます。
で、一方、この世界にはそういう個人の小さな事情とはかけ離れた大きな問題が存在します。国際情勢がどうこうとか、宇宙の運命がどうこうとかいう問題です。
これは、基本的には個人の意志だけで決まって来ることはありえないことで、何十億という人の意志が複雑に関わっていたり、あるいはそれ以上の「世界の理」そのものを巡る問題であったりします。
もはやはっきりと個人の世界とは断絶したこの世界のことを「マクロの世界」と呼び、その世界で展開する物語を「マクロの物語」と呼称します。
『三国志』とか『幼年期の終り』みたいな国家の命運だの星々の盛衰が絡む物語は、いずれもみな「マクロの物語」だといっていいでしょう。
ミクロの物語とマクロの物語。この両者が根本的に異なる性質を持つことはわかってもらえるでしょうか。
たとえば、アーサー・C・クラークには有名な長編SFがたくさんありますが、それぞれの作品の登場人物の名前を憶えているひとなど、相当の読者でもほとんどいないのではないでしょうか。
これが「ミクロが描かれていない」ということです。むろんそれは作品の欠点ではなく、ただそこに主眼がないだけのことなのですが、とにかく「ミクロの物語」と「マクロの物語」はある意味で別物なのです。
ここが了解してもらえないと、いままでぼくが語ってきたこと、あるいはこれから語ろうとしていることも、ほとんど理解できなくなってしまうと思うので、どうかよくわかっておいてください。
ミクロとマクロ――このふたつの世界、ふたつの物語は根本的に異なるものであり、異なるテーマを持っていますが、当然、完全に隔たった世界というわけでもありません。
あるひとつの世界を遠景で見ればマクロが見え、近景で見ればミクロが見える。そういう視点の違いでしかないといってもいいでしょう。
したがって、「ミクロ的な部分もあれば、マクロ的な部分もある物語」というものが存在しえます。さらにいえば、「ミクロ的な部分と、マクロ的な部分が、互いに影響を与え合っている物語」もまたありえるでしょう。
というか、じっさいにあります。それが、ペトロニウスさんがいうところの「ミクロとマクロがリンクした物語」です。
ただ矮小な世間の出来事を細々と描くだけでもなく、ひたすらに壮大な世界のありようをロングショットで追うばかりでもなく、その両者を同時に描き、なおかつ両者が影響しあうさまを克明に綴った物語――そういうイメージでしょうか。
具体的には、先ほど名前を挙げた『ヴァンパイア十字界』など、ぼくやペトロニウスさんが好んで名前を挙げる作品が挙げられます。あんだすたん?
『ヴァンパイア十字界』を例として取り上げると、この物語のなかでは、個人の、個人としての愛情や悲劇、運命、戦いなどが詳細に描かれていますが、その一方で、国家と人類の運命の展開もまた縷々と綴られ、しかもその両者が絡まり合い、渾然一体となっています。
こういうの! まさにこういうのが見たいんですよ! あたりまえすが、『サザエさん』や『ゆゆ式』のようなミクロの物語でマクロの事情が問題にされることはありえません。
また、マクロを描くことに専心するハードSFなどでは個人のミクロな事情がなおざりにされることがよくあります。しかし、ぼくはその両方を同時に起動させ、絡ませあって描く物語を見たいんだな、といまあらためて思います。
ただ、作家の資質として両方を完璧に描ける才能の持ち主というものはまずなく、ミクロに寄るかマクロに寄るかするものなのですが。
相当に天才的なバランス感覚の持ち主でも、たとえば栗本薫は最後にはミクロに寄りましたし、田中芳樹はどうしてもマクロに寄りますよね。そういうものなのです。
だからこそ、その両者の相克を超絶的レベルで描き切った『ヴァンパイア十字界』がほんとうに信じられないような奇跡的な傑作だということになるのですが、まあそれはいい。
とにかくそういう「ミクロとマクロがリンクした物語」をぼくは読みたいと思うわけです。
ちなみに、ぼくはくわしくはありませんが、日本文学は伝統的にミクロの物語を仔細に描くことを良しとし、個人の内面を重視し、いささかマクロを軽んじているようです。
それでぼくはどうしてもその種の文学に興味を持てず、主にエンターテインメントを読んで来たわけなのです。もちろん、主流文学のなかにも探せば巧みにマクロを描いたものを見つけ出すこともできるでしょうが。
そして、このブログを長く読んでおられる方ならもうわかったことと思いますが、このミクロとマクロを限りなく近づけ、一体化させ、ミクロが直接にマクロに影響を与えるような、本来ありえざる世界を描き出しているのが「セカイ系」の作品だったのではないか、というのが、最近のぼく(たち)の「読み」です。
そしてまた、あらためてより客観的に、ミクロとマクロの間の限りない距離を取り戻したのが「新世界の物語」ということになりそうです。ここまではおさらいですが、よろしいでしょうか?
さて、「ミクロとマクロがリンクした物語」においては、純粋なミクロの物語でもマクロの物語でも発生しないような、「ミクロの事情」と「マクロの展開」のぶつかり合いが起きます。
たとえば、『ヴァンパイア十字界』の主人公ローズレッド・ストラウスはきわめて傑出した王として国を運営していきますが、決して個人としての心を失わったわけではありません。
したがって、国を思い民を愛する王(マクロを指導する為政者)としての心と、個の幸せを求めるあたりまえの人間としての心が衝突するのです。
その具体的な描写はどうしてもネタバレになってしまうので『ヴァンパイア十字界』本編を読んでもらうよりほかありませんが、ともかくこのようなことを、ぼくは「ミクロとマクロの相克」と呼んでいるわけです。
いい方を変えるなら、それは「個の心情と全体の事情の矛盾」を巡るテーマでもあります。ぼくは、シナリオの根幹のところにその「相克」を仕組んだ物語を読んでみたいんですよ。
それはある時は「セカイ系」という形を取り、ある時は「新世界の物語」という形を採用することと思いますが、いずれにしろ、そこには「個」の心情を追うミクロの物語にも、「全体」の運命を描くマクロの物語にもない魅力があります。
ここらへんは個人の好みが関わってくるわけで、ミクロの物語にしか興味がないという人も、マクロの物語にしか関心を抱かないという人もいることでしょうが、それはそれとして、そういうことなのです。
もう少し話を続けてみましょう。「個」を追うミクロの物語のテーマは、当然ながら「個」の人生です。そして内面です。
くり返しいうようにぼくはくわしくありませんが、これを極限まで突き詰めた形が私小説なのでしょうね。「わたし」の内面だけにフォーカスして、ひたすらその葛藤なり躍動なりを追いかける物語。まさに「私」の「小説」というわけです。
一方で、「全体」を描くマクロの物語のテーマは「全体」の運命です。国家や企業や人類や宇宙がどのように変化していくのかという、そのダイナミズムです。
これを突き詰めると小松左京あたりの巨視的スケールのSF小説になります。偉大な小松左京には傑作としかいいようがない作品がたくさんあるわけですが、しかし、やはり読み終えたあとには主人公の名前などすぐに忘れ去ってしまいます。
そこではミクロのことはまったく問題にもされていないのです。まあ、あたりまえですよね。人類を描きたいのですから。
したがって、当然というか、そのどちらかにしか関心がない読者に相反する物語を届けたりすると、不評になったりします。
先に名を挙げた偉大なSF作家アーサー・C・クラークの代表作のひとつに『宇宙のランデヴー』があります。これはまさに宇宙的スケールでの異星人との接触(ランデヴー)を描いた大傑作なのですが、実は続編があるのですね。それも三作も。
その続編のほうはじっさいにはクラークではなくジェントリー・リーという作家が書いているらしいのですが、それはSFファンにはきわめて評判が悪かったんです。
というのも、それが家族がどうの恋愛がどうのというミクロの問題にばかり注目して、宇宙的視野でのランデヴーというマクロの問題をなかなか描かなかったからだとか。
まあ、ぼくは評判を聞いて避けたのでほんとうかどうかはわかりませんが、とにかくそういうことはありえるし、ある。ミクロとマクロでは扱うテーマがまったく違うのだから当然でしょう。
で、ぼくはミクロの物語が扱う究極のテーマは「愛」だと思う。「差別」といってもいい。ここらへんは『ヴィンランド・サガ』あたりでくわしく語られていることですが、ぼくは「愛」と「差別」とは同じものだと思うわけです。
「だれかを愛すること」と「だれかを差別すること」は本質的には変わらないことだと。なぜなら、ある人とべつのある人を比べて、より価値がある人は存在する、つまりより価値がない人もまた存在する、と考えることが「愛」であり「差別」なのですから。
ただそのポジティヴな面が「愛」と呼ばれ、ネガティヴな面が「差別」と呼ばれているだけのことです。
もし人間に一切の愛がなかったなら、この世ははるかに円滑に運営されたかもしれません。そこには差別もまた存在しないのですから。
たとえば、ぼくたちは一般に中東で起きた紛争のことよりも、自分の家族のいじめの問題のほうにずっと心を惹きつけられます。
中東の紛争だってたくさんの人の命が関わる重要な問題なのだと理性では理解しているはずですが、感情的にはそうきれいに納得できていないわけです。
しょせん大半の人間はミクロの狭隘な世界を生きているわけで、遠方のマクロの問題にそこまで関心を抱くことは普通はありません。
しかし、もし、あらゆる人間が「中東の紛争で死んでいく人々」と「自分の家族」を平等に扱ったとしたら? ある種の理想世界が生まれるかもしれません。
少なくとも戦争などはほとんど起こらなくなるでしょう。戦争とは、そもそも「自分の身近な人」に「遠くの無関係な人」以上の価値がある、と考えるからこそ起こるわけです。
「敵」より「仲間」にバリューを見いだしているといってもいい。しかし、そういった発想がそもそも存在しない世界では、そんな愚挙は起こらないには違いない。ですが、その世界には「家族愛」などというものもまたありえはしないのです。
ここらへんの物語を描いて、ぼくから見ると非常につまらない結論を出しているのが、山本弘の『アイの物語』や、『去年は良い年になるだろう』なのですが、それは長くなるのでカットして、また別に語ることにします。
で、まあ、そういうわけで、ミクロの物語では「愛」ないし「差別」はきわめて重要なテーマです。だからこそ、ミクロの物語の最高のものは、皆、ラブストーリーになるわけです。『ロミオとジュリエット』とか『ノルウェイの森』とか『世界の中心で、愛をさけぶ』とかね。
わかりますよね? 「恋人が突然死んでしまった。哀しくてたまらない」みたいなテーマは、「恋人」という「個」の死に非常に大きな意味があると考えているからこそ成立するのです。
他方、マクロの物語で大切なのは「全体」の運命ですから、その構成員である個人が生きようが死のうが、ほとんど問題にされることはありません。あたりまえといえばあたりまえの話です。
それでは「ミクロとマクロがリンクした物語」のテーマとは何でしょうか? それは「個」と「全体」がどのように矛盾し、ぶつかり合うか、ということになります。
既に語ったように「個」と「全体」のそれぞれの事情はしばしば互いに相容れないのです。たとえば、「人類の他の惑星への移住プロジェクト」といったマクロな問題のリーダーは、そう簡単に個人の「愛」に溺れることを赦されないでしょう。
いいかえるなら、ほかの人ほど簡単に人間を「差別」できないということです。マクロのテーマを背負った人間には、それなりの責任があり、好きな人も嫌いな人も平等に救わなければならないのですよ。
しかし、そうはいっても、当然、ひとりの人間としての心が消えてなくなるわけではありません。それでは、どうするか? そういうことが「ミクロとマクロがリンクした物語」のメインテーマなんですね。
この「相克」ないし「矛盾」を描いて失敗した良い例が、このあいだ取り上げた『PACT』です。
日本という「全体」が危機に陥っていて、その命運こそがテーマになるべき時に、「個」の心理がセンチメンタルに語られることで、読者は何かしらじらとしてしまうわけです。「ていうか、そんなこといっていないで「全体」に殉じろよ」と思ってしまうというわけ。
それで、成功例は何かといえば、まさに『ヴァンパイア十字界』というわけです。ここでは、己が治める「夜の国」という「全体」のために個人の事情を限りなく無視する「偉大な王(リーダー)」としてのローズレッド・ストラウスが主人公となっています。
かれのような「偉大なリーダー」は「ミクロの存在(ひとりの人間)」でありながら、「マクロの展開(国家と人類の運営)」にたずさわってしまっているという、「ミクロとマクロがリンクした物語」における究極のキャラクターです。
ミクロとマクロの相克を一身に体現してしまっているといってもいい。かれはミクロの個人としてあまりのマクロの重圧に苦しみ、悩みます。しかし、それでいて同時にマクロの為政者として個人の感情を度外視した超絶的スケールの「政策」を打ち出していくのです。
ここではミクロとマクロが奇跡的に絶妙な均衡を取っています。ただミクロの悲劇に溺れるだけでも、マクロの計画を操るだけでも、ローズレッド・ストラウスはここまで魅力的なキャラクターにはなっていなかったでしょう。
かれの肩には「マクロ」という名のあまりにも重い責任がかかっています。本来、それは個人が背負いきれるはずもないものです。もし背負おうとすれば、一切の「愛」を、「差別」を赦されなくなります。
王たる者はあたりまえの人のように他者を愛することなどは赦されないのですから。しかし、かれは地獄のような苦しみに晒されながら、それでもなおそれらすべてを背負っていく。すべての弱き人々のために。
その姿はあまりにも気高く、美しい。まさに王のなかの王、リーダーの規範というべきでしょう。こういうキャラクターをこそ、ぼくは見たいんですよ。
べつの例でいうと、『アルスラーン戦記』や『十二国記』や、『黄金の王 白銀の王』や、あるいはそれこそ「ヒーローものの系譜」が思い浮かびます。
そう、『ダークナイト』とか『スパイダーマン』とか、あるいは『東のエデン』とか『ZETMAN』といった作品のことです。そこでは「ミクロの個人」でありながら「マクロの無限責任」を背負ってしまった者たちの生き方が綴られています。
ただ、このような「マクロを背負った英雄」のあまりにも悲劇的な生き方を見ているうち、ひとつの疑問が湧いてきます。
なぜかれらだけがこんなにも重いものを背負わなければならないのか? かれらに守られる群衆(クラウズ)はただ守られるだけのかよわい存在であっていいのか? その「弱さ」とは、それ自体が問題視されるべき性質のものではないのだろうか?
こういったテーマから生まれた物語を、我らがLDさんは「脱英雄譚」と呼びます。「ミクロとマクロがリンクした物語」の新しい展開です。
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コメント
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おお!
(ID:12602372)
記事を読まさせて頂きました。僕もミクロとマクロかリンクした物語が好きです。ミクロが背負った悲劇を群衆の方からも共感し、ミクロの悲劇や責任を分割する。それによって、ミクロも少し楽になる。とふと思いましたが、まだ、色々と考えています。
とりあえずコメントしたいと、気持ちが高り、コメントさせて頂きました。
(著者)
そうですね。そういう方向性になっていくと思います。いや、じっさい、ローズレッド・ストラウスのあまりに気高い孤独を見ていると、なぜかれだけがこんな目に遭わなければならないのかわからないのですよ。