『ヱヴァ』と『妖怪ウォッチ』で考える責任論。
ども。近所のゲオで『たまこラブストーリー』をレンタルしてきた海燕です。はたして寝る前に試聴することができるか、どうか。非常に楽しみな内容ではあるんですけれど、どうかなあ。
さて、ここ数日、腰痛を初めとする身体不良にボロボロになっていたぼくであるわけなのですが、数度に渡る電気ショックと、注射と、数多すぎて何が何だかわからない錠剤のマジカルパワーによって、ついにここに復活を遂げました。
まだ100%とは行かないけれど、だいたい90~95%くらいまでは回復したと思う。そうなると、いままで更新をサボってきたことが罪深く思えて来るわけで、枕を座椅子代わりにしてパソコンに向かおうと思ったしだいです。
しかしまあ、ほんとうに大変な数日でありましたことよ。肉体的に相当やばい橋を渡っていた上、精神的にもどん底のさらにどん底。ついには体内のどこかの血管が破れたらしく、血まみれの痰を吐き出すようになって、真剣に死を考えました。
というか、今回はまあ大丈夫だったとして、このままストレスフルな生活を続けていると、いつか確実にガンになって死亡すると思う。いまこそ人生を変える時!
とはいえ、そう簡単に生き方を変えられたら苦労はしない。もちろんさまざまな出来事を経験するたび、理屈としては色々な「悟り」があるものの、押し寄せる現実のプレッシャーは圧倒的で、それを前にどうしようもなく流されてしまうのがきょうまでのぼくだったわけです。
それはきっとあしたからも変わらないことでしょう。人生が格段に楽になる魔法のひと言なんて存在しない。ぼくの手もとにある美しい錠剤の数々も、人生そのものを一気に治療できるほどにはマジカルではないらしい。
ただ、いくらか人生の重みを軽くしてくれる言葉は見つけました。それでは、ぼくが地獄のような自己追求の迷宮の底で、ついに悟ったこの世の真理をお教えしましょう。
それはわずか一行で表せます。つまり、「この地上で起こる出来事は、何もかもぼくのせいではない」。以上!
いやー、この単純な「悟り」はぼくの人生にとって革命的な意味を持つと思う。もちろん、現実にはこの言葉をどこまで実感しつづけられるかという問題があるのだけれど、それにしても、思考の基板となっているところにある倫理をドラスティックに変えてくれる一行なんじゃないか。
この言葉にたどり着けた自分を褒めてやりたい気持ちである。偉いぞ>ぼく。まあ、いかにも極端かつ無責任きわまりまりない発言に思えることはわかっています。
でも、ぼくの硬直しきった人生を変えるにはこのくらいの劇薬が必要だと思うのですね。ぼくはいままで「何であれひとのせいにしてはいけない。自分で自分の人生を背負わないことには成長はない」と考えて生きて来ました。
ある意味では非常に「正しい」理屈だといまでも思う。「自分の問題をひとのせいにするな」というのは、ある意味で日本人好みのモラルではあると思うのですが――でも、これ、突き詰めていくと世界のすべてをひとりで背負わないといけなくなるんですね。
『Fate』のセイバーとか衛宮士郎がこの陥穽に陥った典型的なキャラクターだと思うけれど、果てしなく拡大していく責任を、すべて自分でひき受けようとすると必ず破綻する。
人間にはどうしたって個人でひき受けられる責任の限界があって、その外のことは「哀しいけれど、仕方ないよね」と割り切るしかないのです。
たとえば、ぼくが全人生をつぎ込めばアフリカの飢えた子供の数十人くらいは救えるかもしれないけれど、ぼくはそうしない。それはある意味でその子供たちを見捨てているともいえるわけだけれど、それを「仕方のないこと」と合理化することなしには、ひとは生きていけないわけです。
それでもなおかつ、「すべての人に平和を! 幸福を!」とかありえない理想を抱いてしまうと、それこそ『Fate/Zero』の衛宮切嗣のようになってしまう。
だから、自分の適切な責任範囲を設定して、その範囲のことだけに集中するのが、まあ大人の態度なのでしょう。
しかし――やっぱりそういう態度はどうしても妥協的なものに思えないこともありません。芥川賞作家の玄侑宗久は、金子みすゞや宮沢賢治の作風には「大乗仏教の呪縛」があるといい、まずは自利に努めなければならないと語っています。
うなずける意見ではありますが、ほんとうにそうでしょうか? そういう都合の良い云い訳を用意して、自分をごまかしているだけなのでは?
ぼくはずっとそう思って、割合に「理想の自分」を追求してきたように思う。「理想の自分」は無限に優しく無限に寛容です。
どんなに傷つけられても、虐げられても、決して怒ることもなく、まして暴力を振るうことなどありえないデクノボー――そういうふうになりたいと思って生きて来た。
ひとは知らず、己はそうでなければならないのだ、と信じて、滑稽な努力を続けてきたように思うのです。そうして、崩れつづける石を積むこと36年。よくやったものだ、と我ながら思います。
高すぎる理想にたどり着くことはついになかったけれど、それでもその青くさい理想を折らずに追い求めつづけてきた。自分なりに妥協せず、真理だと信じるところを追いかけて来た。
だけれど――その結果がストレスとなって積もりに積もって、文字通り血を吐く羽目になったわけです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。決して手が届かない高すぎる「理想」と、醜怪にして卑小な「現実」との耐えがたい落差は、そのまま重圧となって自分を苦しめるのですから。
その苦しみを、しのぎ、しのぎ、何とか乗り越えて生きて来たのがぼくの人生だったと思います。
苦しかった。聖賢に非ず、どこにでもいる凡人であり俗人であるに過ぎないぼくが、届かない理想に手をのばそうとしてきたのだから、その無理、矛盾はあまりにも大きかったといえます。
そしていま、ついにぼくは「このままこの生き方を続ければ死ぬ」と悟らざるを得なくなったわけです。さて――さて。それでは、どうするか。
死ぬとしてもあくまで自分の理想を貫くか。それとも妥協して普通のあたりまえの人生を送りつづけるか。もっとも、元々、普通の人生を送っていることには変わりはないのです。
つまり、意識の上で理想を追うかどうかという違いがあるだけなのですね。だから、ぼくがどう決意しようと世界には何ら変化はないはずなのですが、それでも、迷いに迷い、苦しみに苦しみました。
そして、いま、ぼくはついに世界という重荷を手放そうと思う。自分の行動に完全な責任を取ることをやめようと思うのです。つまりは、生きることを選ぶ――それがぼくの選択です。
金子みすゞは、この究極の矛盾を整合させることができないまま、自殺を遂げました。その激烈な生に比べれば、ぼくの生き方はやはり微温です。ぼくにはそこまで自分を貫き通すことはできない。
だけれど、そうであるとしても、ぼくはとりあえず生きることを選びたい。妥協するとしても、理想を見失うとしても、心を折るとしても、ひとりの人間として生きていくことを選びたいと思う。
高すぎる理想と卑しい自分との乖離に苦しめられることは、もういいかげん限界だ。文字通り血を吐いてみて、それがようやくわかった。
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