これがもう、腰が割れたかと思うほどの激痛。ちょっと即座には立てませんでしたにょ。それが一時間も経つともうだいぶ平気になっているのだからふしぎというか。
もちろん、ほんとうはまったく平気ではなくて、一時的に眠りに就いただけなのだろうけれど……。
ちなみにぼくはこれが人生で二回目のぎっくり腰。一回目はコミケ参加の前日でした。その時は腰にバンドを巻いて参加したんだから恐ろしい。
東京で再発していたら新潟に帰って来られなかった可能性もあったんだよなあ。つくづくよく行ったものだと思います。
ぎっくり腰というとどこか間の抜けた響きがありますが、医学的には急性腰痛症といってとんでもなく危険なシロモノ。腰痛で人生をぶっ壊されたひとはいくらでもいます。
まあ、原因はほとんどよくわかっていなくて、どうやらストレスが元らしい?ということがいわれていたりするようですねー。
『腰痛は〈怒り〉である』なんてタイトルの本まであって、これがもう、我が身を振り返ると思いあたるところありまくり。もうちょっと怒らないようにしないと、次は確実にガンだな、と思います。抜本的な生活改善が必要ですね……。
まあ、ぼくの場合、ストレスのもとはほとんど自己嫌悪にあるんだけれど、人生の考え方そのものを変えないと、ちょっとどうしようもない感じです。
最近、『「恐れの眼鏡」をはずせば、すべてうまくいく!』という本を読みました。ちょっと胡散臭いタイトルなのですが、これが意外にいい本で、読みごたえがありました。
〈アティテューディナル・ヒーリング〉という、ようはある種の認知療法の話なのだけれど、ぼくとしてはわりと切実に身に迫る内容でした。
つまりは、ひとは時に「怖れの眼鏡」というバイアスでもの事を見ていて、その眼鏡によって歪んだ光景しか認知できないということなんですね。で、その眼鏡を外すと(バイアスを是正すると)、もの事は色々うまく行くんだよ、と。
これはねー、ほんとにそうだと思いますね。「怖れ」という言葉で表現されていますが、ぼくは「不安の眼鏡」といいたい。ぼくの人生はわりと「存在の耐えがたい不安」との戦いでした。
ペトロニウスさん的にいうと「ナルシシズム」の一種なんだろうけれど、ほんとうは何でもないいろんなことを「不安のバイアス」で見て、かってに恐怖したり、絶望したりして苦しむんですね。
ほんとうはそれほどひどいことになっていないのに、「ひどいことになったらどうしよう」、「いや、そうなるに違いない」、「そうしたらもう生きていけない」とまで考えて、思考の迷路にはまり込む。
その迷路には「怒り」や「憎しみ」や「差別心」がひそんでいて、認知をねじ曲げてしまうわけですね。おお、恐ろしい。
この本のなかでは、ひとは「恐れの眼鏡」を手放すと「愛の眼鏡」を通してものを見ることになるということが記されています。愛というといかにも大げさですが、でもやっぱりそこなんだと思うんですよ。
世界を、呪いではなく愛を通して見るということ。それがたぶん幸福な視点というものなのだろうと思う。
アティテューディナル・ヒーリングとは、ある種の認知行動療法なんだろうと思うのですが、つまり「身も蓋もない現実」を直視することによってひとは救われるという話だと思うんですよ。
現実を見ることはとても恐ろしいことだけれど、それを避けて逃げている限りひとは救われないのです。
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コメント
海燕
(著者)
(著者)
読んでみます。
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(ID:582585)
私も一時期、未来や将来に不安を抱いていて、このままの仕事で生きていけるのか
親が亡くなったら生きていけるのか、その前に要介護などになったら……etcと
尽きぬ不安に押しつぶされそうになってて、文字通り「恐怖の眼鏡」越しに見える世界に絶望しかけてました
ただそこから、生きる気力を貰ったのが心屋さんとモタさんこと斉藤茂田さんの著書でした
簡単にまとめれば「ダメな自分を認めて肯定する」「人の視線(世間体)に振り回されない」
「不安なことは滅多に起きないし、起きてから考えればいい、今困ってても何にもならない」
この言葉だけで、今まで何に悩んでいたかバカらしくなって自分らしく生きていけばいいと思えるようになりました
できれば海燕さんにこの二人の著書でブログを書いてもらえたらな、と図々しいことを考えてる一読者の戯言です