上着のすそのポケットから、警務大臣はかぎ煙草の箱を出した。もろいバラ色瑪瑙で作った楕円形の箱で、ふたには一ぴきの蜜蜂とNの字を中にしてダイヤモンドを小さな円状にはめこんであり、そのダイヤが薄よごれた部屋には不似合いな輝きを発していた。ジョゼフ・フーシェは昔の彼にくらべたら何層倍も金持ちになっていたが、趣味はあいかわらず質素だった。この箱はまちがいなく皇帝から下賜されたものであり、皇帝は腹わたが煮えくり返って癇癪の発作を起こすほどこの男を憎んでいたが、ほかに彼ほど有能な人材を見つけられないでいたのである。
ジョン・ディクスン・カー『喉切り隊長』、これはおもしろかった。時は西暦1805年、舞台はフランス。折りしも皇帝ナポレオンの全盛期、ヨーロッパの諸権力に続いて、いま英国もまたナポレオンに呑み込まれようとしていた。しかし、ここにひとつの障害が立ちふさがる。
ナポレオン麾下の「大陸軍」で、白昼堂々と兵士惨殺をくりかえす「喉切り隊長」がそれだ。この幽霊のような殺人者の影は、一歩まちがえれば大陸軍を崩壊させかねない。この危急の事態を前に、皇帝は警務大臣フーシェに喉切り隊長捕縛を命じる。
そしてフーシェは、つい数日前逮捕されたばかりの英国のスパイ、アラン・ヘッバーンをこの件に利用することを考える。英国人であるかれに、フランス軍を悩ませる「喉切り隊長」を探させるのだ! もちろん敵側のアランがそう簡単にいうことをきくはずがない。
しかしこの才気あふれる19世紀版ジェームズ・ボンドにも、たったひとつだけアキレス腱があった。心ならずも別れた愛妻マドレーヌのことだ。フーシェは彼女の身柄をえさに、巧みな策略でアランを追い込む。しかもその腹にはまだべつの謀略があるらしい。
はたしてフーシェの真意とは? 喉切り隊長の正体は? アランはフーシェとナポレオンの思惑を裏切って、イギリスにフランス軍の情報を伝えられるのか? いくつもの運命の糸がもつれてはほころびながら、歴史のタペストリが編み上げられていく――。
ざっとあらすじを書けばこんな感じなのですが、実際にはアランの宿敵となる大陸軍最強の剣客やら、お人好しの仕官やら、可憐で聡明なヒロインやら、アランをたぶらかす美貌の女スパイ(なんと実在の人物)やら、多彩な人物が登場し、飽きさせません。
しかし本書登場人物の白眉はなんといっても警務大臣フーシェでしょう。フーシェ。王制時代から共和国時代、そしてナポレオンによる帝政時代と、たびたび主を変えながら生きのびぬいた、悪魔のように、あるいは悪魔以上に狡猾な男。
この冷酷非情な大策謀家をあいてに、アランは危険な賭けを挑む羽目になります。だまし、だまされ、だまされたふりをし、相手の思考の裏まで裏まで読んでその一歩上を行こうとする、アランとフーシェの超絶頭脳戦が本書の最大の読みどころです。
フーシェとナポレオンの関係は、どこかしら
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