デリバリーシンデレラ 9 (ヤングジャンプコミックス)

 先日、NONの異色漫画『デリバリーシンデレラ』が完結した。タイトルからわかるように、デリバリーヘルスの世界を描いた作品である。

 デリバリーヘルス、いわゆるデリヘルとは、合法性風俗の一種で、電話で依頼人のホテルや自宅などに電話で呼び出されてサービスする業種のこと。ピザではなく女の子が配達されるピザ屋みたいなものですか。

 いままで日本の漫画はありとあらゆる職業を扱ってきた。スポーツ選手や芸術家といった花形職業はもちろん、サラリーマンものも数々あるし、税理士や弁護士、医者や消防士、バーテンダーやソムリエ、さまざまなジャンルの料理人――たいていの職業を網羅しているといってもいいのではないだろうか。

 デリヘル嬢を主役にした漫画だって当然、過去にはあるだろう。しかし、この『デリバリーシンデレラ』が画期的なのは、風俗の仕事、セックスワークをあくまで「お仕事」として描ききっているところにある。たしかにお色気描写もあり、その手の漫画といえばいえなくもないが、人間ドラマのほうが意外なほどしっかりしていて読ませるのだ。

 そう、ひとにはなかなか自慢できないセックスワークといえど、そこには当然、「その仕事ならではの喜び」があり、「その仕事に特有の苦労」があるわけだ。その点をていねいに描いている点で『デリバリーシンデレラ』は職業漫画の佳作といっていいだろう。

 もちろん、そのすべてを正確に描写しているというわけではなく、ある程度は美化されているだろうし、「こんな風俗嬢いない」といってしまえばそうかもしれない。しかし、それでも、ここにはセックスワークを「ひとつの仕事」として、神聖視するのでも蔑視するのでもなく見つめる新しい視点がある。

 作中にはこの仕事を嫌う女性や、この仕事に対し理解がない女性も登場し、風俗嬢が必ずしも社会に歓迎される仕事ではないという現実も描かれている。しかし、それでもなお、これがひとつの「お仕事」であることに変わりはない。

 職業に貴賎なし。この言葉が真に意味するものを考えさせる、ひとにとって「性」とは何なのかを考えるための教科書となりえる作品だ。そういうわけで、最近、ちょっとお勧めの漫画なのである。男性だけでなく、女性も読んでみるといいかもしれない。

 Amazonのレビューでは「嘘」だ、「偽善」だと酷評されているものもあるけれど、それなら、『将太の寿司』がリアルだったか? 『め組の大吾』がリアルだったか? という話だ。なぜ風俗描写にだけリアルを求めるのかと考えてみるべきではないかしら、とぼくは思う。

 もちろん、もともと売春婦は「賎業婦」と呼ばれていたくらいだから、「卑しむべき職業」とみなされ、その描写に「醜悪なリアル」を求められることもある意味では自然なのかもしれない。しかし、これほど性情報が氾濫する社会でもまだ性産業に対する強い嫌悪感が残っているということは、やはりおもしろい。

 おそらく売春者差別の背景にあるものは、「愛のあるセックス」を特権化する視点であると思われる。つまり、「愛のあるセックス」こそが「本物のセックス」で、それ以外のセックスは醜悪な偽物に過ぎないという思想である。

 しかし、本当にそうなのか。「愛のあるセックス」を相対化した名作は少なくない。たとえば石田衣良の『娼年』では、主人公リョウはボーイズクラブの女性オーナーに誘われ、「娼夫」になってさまざまな性的嗜好をもつ女性たちに奉仕する。

 そのなかには世間的尺度で見れば変態的、倒錯的な趣味のもち主も少なくない。が、かれはどんな趣味も批判しようとはしない。ただひたすらにすべてを受け入れるのである。その性的冒険の過程で、「愛のあるセックス」は相対化され、無数の性のかたちのひとつとして位置づけられる。

 しかし、かれに恋する同級生のメグミは、そんなかれを認めようとはせず、かれを陥れてまで仕事をやめさせようとする。ここでは、あいての自由を奪おうとする「愛」と、あいてのすべてを容認する「愛」が、鋭く対決させられている。

 新井輝『ROOM NO.1301』は、少年向けライトノベルではあるものの、『娼年』よりもっと奔放な性のかたちを描いている。この作品の主人公は、特に愛情を抱いているわけでもないあいてとも寝てしまう少年である。しかし、じっさいにつきあっている恋人とはキスひとつしない。ここでもお定まりの「愛」は相対化されている。

 また、もっと「純粋な」恋愛にしても、まず身体の関係から始まることもありえる。たとえば、グレン・サヴァン『ぼくの美しい人だから』のように。この小説は、14歳も年上の女性とたまたま肉体を重ねてしまったことから、その関係に溺れていく若者の話だ。

 初めはセックスの相性が良いという程度の関係でしかなかった二人が、しだいに心から思いあうようになるプロセスが生々しく綴られている。あるいは、こういう関係は「純愛」と呼ぶには値しないかもしれない。しかし、なまじの「純愛」より深く心に迫る恋愛小説の逸品だ。

 漫画に目を向ければ、たとえば名香智子『シャルトル公爵家の愉しみ』が思い浮かぶ。この作品の主人公アンリの両親はセックスレス夫婦である。それもそのはずで、父親には愛人がいるし、母親はレズビアンなのだ。

 この夫婦の酒に酔った末の「間違い」の末に生まれてきたのがアンリなのである。もっとも、その両親は性行為こそないものの愛しあっているし、アンリ自身もひとりの人物に終生の愛を誓うというタイプではないから、何の問題も生じない。少女漫画といえば純愛幻想を描くもの、と思い込んでいるひとに是非読んでもらいたい一作である。

 少女漫画といえば、TONO『カルバニア物語』のヒロイン、エキューも相当に奔放なタイプだといえるだろう。彼女は語る。「いきなりですが 私はそろそろ〝恋人のいる人生〟に突入することにしようと思うの」「〝英雄色を好む〟女版! せっかく女に産まれたんだもん どーせならいろんな男の人をためしてみたいじゃん」。まだ処女のくせに! 

 しかし、彼女に「手はじめ」呼ばわりされた恋人のライアンはこう言う。「私が〝てはじめ〟なら大丈夫!! なぜなら恋人同士になってしまえば もうエキュー・タンタロットは私以外の男なんぞまるで目に入らなくなるから!」。お似合いのふたり、というべきだろう。もっとも、ライアンもかつては複数の少年たちを寵愛していたのだから、あまりひとのことを非難できない。

 陽気婢『彼女の自由』のヒロインも同じようなタイプで、さまざまな男性とセックスを重ねる。ここでは、彼女に恋してしまった少年が「彼女の自由」にどう対処するか、そこが焦点になってくる。

 このように書いていっても、「やはり売春には愛がないのだから、良くない」と思われる方もいらっしゃるだろう。そういう方は 坂井恵理『ラブホルモン』を読んでもらいたい。

 この作品のヒロインは、「ラブホルモン」と呼ばれる薬剤を利用して人工的に恋愛感情を生み出した上で身体を売る。つまり、一時的に「愛のあるセックス」を売るわけだ。さて、こういう関係は「本物のセックス」といえるだろうか?

  ほかにも「愛のないセックス」を肯定的に描いた作品は無数にあるはずだ。とりあえず、「愛のないセックス」について学ぶために、そういう作品を読んでみるというのは、どうだろう? 今回は深入りしないが、ノンフィクションでは宮台真司ほか『「性の自己決定」原論』、藤本由香里&白藤花夜子『快楽電流』あたりが参考になると思う。

 ぼくの好きな映画で、ジョニー・デップ主演の『ドンファン』という作品がある。この映画でデップは1502人もの女性とベッドをともにした男、ドンファンを演じている。かれはその美貌で行きずりの女性も落としてしまう。

 じっさいの話、あいてがデップなら、「愛」などなくても、ベッドをともにしてみたいと思うひとは少なくないと思うのだが、女性の皆さん、いかがでしょうか。