きのうのことだ。書店の店頭で『中国人韓国人にはなぜ「心」がないのか』という本を見つけてうんざりした。経済が沈滞するなか排外主義が横行する。どこの国でも同じことなのかもしれないけれど、あらためてそのどす黒さを突きつけられた感じ。
べつにインターナショナリズムの理想に傾倒するわけでもないけれど、こうも低俗なナショナリズムに共感できないのは当然で、まあ阿呆らしいよな、と。
そういうわけでげんなりしていたところ、「ハラール肉と排外ヒステリア」という記事を発見。
イギリスのイスラモフォビア(イスラムに対する嫌悪感)に関する記事なのだけれど、そうか、イギリスもか、とうなってしまう。というか、当然ながら経済の沈滞も、排外主義の興隆も、向こうのほうがずっと先を行っているだ。
浦沢直樹の『MASTERキートン』や『MONSTER』でしばしば排外的な人物が登場していたことを思い出させられる。
世界の国々や民族がより近づいていく過程で右傾化が進むのは自然といえば自然で、そういえば最近はテレビも「日本すごい」「日本大好き」と外国人に云わせて悦に入る類の番組が増えているみたいだ。
イギリスに話を戻すと、こういうのって伝統的な左派のひとから見れば露骨なレイシズム以外の何ものでもなく、嫌悪するべき状況だったりするのかもしれないけれど、ロジックでもってハラール肉に問題がないことを指摘しても何の意味もない。
なぜならこれは「そういう問題ではない」からだ。大きいのは情緒の問題なのだ。もちろん、排外的な主張に対していちいち「それは論理的に間違えている」と指摘してゆくことも大切だろうけれど、それですべてが解決するわけではない。問題は具体的な言論の背景にある「言葉にならない不安」なのだから。
それはこの場合は「イスラム教徒に国を乗っ取られるかもしれない」というものだろうし、日本でいうなら「中国に侵略されるかもしれない」「韓国人に支配されるかもしれない」ということだろう。そして「伝統に帰れ」という主張が声高に叫ばれることになる。
その「伝統」なるものも、じっさいには近年に捏造されたものに過ぎなかったりすることも少なくないわけだが――。しかし、繰り返すが、ロジックでもって解決する問題ではないのである。
「論理的に批判すれば問題は解決する」という考え方は、それ自体、きわめて非合理的なものだということ。現実を無視した論理至上主義は、それそのものがある種の信念というか、宗教というか、そういうものだとすら云えるのではないだろうか。
これはべつに論理を軽んじているわけではなく、ただ、論理だけで何もかも解決するという訳にはいかないと云っているだけである。あたりまえのことだ。ひとはそもそも論理的に生きているわけではないのだから。
まあ、21世紀が進むにつれイスラム教徒は増加してゆく一方だそうで、イギリスはこれからぼくたちがイメージするイギリスとは違う国になっていくのかもしれない。それも歴史の必然、と達観しきれるひとだけではないことは、むしろ当然といえるのではないだろうか。
いったん排外主義に染まったひとの考えを変えることは、きわめてむずかしそうだ。だから、問題は
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