弱いなら弱いままで。

同人誌『戦場感覚』宣伝。

2014/04/15 14:38 投稿

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 同人誌通信販売の宣伝として、以前、『戦場感覚』をコミックマーケットに販売するときに書いた文章を転載しておきます。なお、本文中に送料込み1300円で販売とありますが、現在の価格は同条件で800円です。以下からお買い求めください。


 ちなみにその半年前に出した同人誌『BREAK/THROUGH』もやはり800円です。


 『戦場感覚』と『BREAK/THROUGH』を合わせてご購入いただくと1500円でお買い求めいただけます。


 安っ。ちなみに2冊とも12~13万文字程度の分量があります。

 なお、もし、クレジットカードがなくて買えないという方がいたらkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまでメールをください。銀行振込も受けつけます。

 さて、それでは、『戦場感覚』の宣伝をお読みください。ちなみに、あくまで当時の情報の転載であって、今年の夏コミに参加するということではありません。念のため。

■お知らせと目次■

 そういうわけで――といっても、何がそういうわけなのかわからないかもしれませんが――今年も夏のコミックマーケットにおいて新刊を発売いたします。前々から告知していたとおり、タイトルは『戦場感覚 ポラリスの銀河ステーション』となります。

 前回に続いてサークルスペースは落選したので(なぜだ!)、今回も敷居さんのところに委託させていただくことにしたいと考えています。

8月14日(日)東地区P-26a

 ぼくは当日、このスペースにいます。ぜひ遊びに来てください。今回もコミケのみ配布のおまけディスクを作ろうかとか考えていますが――疲れ果てたので作らないかもしれません(笑)。

 いや、今回はほんとに疲れた。疲れたんだよ、パトラッシュ。本来、ぼくは前回ですべてを出し切ってしまうつもりでした。つまりまあ、真っ白な灰になって終わりたかった。

 しかし、前作『BREAK/THROUGH』を書き終わったとき、ぼくのなかではまだ燃えのこっているものがありました。まだ書けるな、と思わざるをえなかったのです。

 その直後は当然、一冊の本にするほどのアイディアはのこっていなかったのですが、それから半年が過ぎるうちに、いろいろなものが自分のなかにたまり、ふたたび新刊を出すよう促しはじめました。しかし――ああ、しかし、そこからが大変だった。

 前回の目標は「Something Orangeを超えること」でした。一冊の本として上梓する以上、ふだん「Something Orange」に書いている内容を遥かに上回る密度とテンションを実現させることが、前作を書くうえでの最低限の目標として浮かび上がってきたのです。

 そして、前作はそれを達成できたと思っています。あきらかに『BREAK/THROUGH』は「Something Orange」よりおもしろいし、また濃密だといまでも思っています。しかし、今回は二冊目です。前回と同じ程度のものなら、作る意味がありません。

 いや、アベレージを稼ぎながら何冊も本を出しつづけるひともいますが、ぼくはそういうタイプではない。やるからには、前作『BREAK/THROUGH』を超えるものでなければ意味がない、初めからそう思っていました。これはひとの評価は関係ありません。自分のなかで、たしかに前作を超えたと思えれば、それで良いのです。

 ところが、じっさいに書きはじめてみると、この前作を超えるということが意外にむずかしいことがわかってきました。そもそもぼくは前作の時点ですべてを出し切ることを目標においていたのです。つまり、前作にはほぼぼくのすべてがあるということになります。

 それからたった半年で、その「すべて」をさらに超克する。考えてみれば、無茶としかいいようがない話でした。とはいえ、前作の二番煎じのような本を出しても意味がない。だれよりもぼく自身が納得できない。そこで生まれてきたテーマが「戦場感覚」でした。

 これはぼく自身が抱えている想いを言葉にしたものですが、いつも戦場に生きているということの感覚です。これはむろん銃弾が飛びかうじっさいの戦場を意味しているわけではありません。ただ生きるということ、それだけが「たたかい」なのだといいたいのです。

 詳細は同人誌に譲りますが、今回はこのアイディアを中核に置くことにしました。戦場感覚――この言葉が浮かんだのと並行して、内容はどんどん決まっていきました。それは前回の段階で構想していたものとはまったくべつの内容でしたが、ぼくにはあきらかにその構想より魅力的なものに思えました。

 前作が、ぼくがおもしろいと思うテーマを適当に並べたいわば「短篇集」だったとするならば、今回は「戦場感覚」という概念で一本通した、まさに「長編」です。長編ならば短編集を超えられるのではないか――ぼくはそんなふうに考えました。

 このもくろみは、おおむね成功したと思っています。今回も前回と同じく最終章でテンションがクライマックスにいたるよう計算して書かれているのですが、そのピークは前作のピークよりさらに高いものに仕上がっているといえるでしょう。つまり、最終到達点が更新されているのです。

 前作と今作、いずれがおもしろく印象にのこるかは、それはまあ、個人の価値しだいではあるでしょうが、少なくともぼくにとっては、前作以上に思い入れ深い一冊に仕上がったと思っています。

 今回は本当に真っ白な灰になりました。ここにすべてを蕩尽したので、もう何もアイディアはのこっていません。これを超えることはもうさすがに無理です。少なくともあと一年はチャレンジする気になれない。それくらいぼくにとっては自分のすべてを置いてきた本だといえます。

 ちなみに前作のとき、ラジオなどで聞いた話ばっかりといわれたことを根に持って、今回は意図的に情報をセーブしました。したがって、「Something Orange」などで見たような内容はほとんどないはずです。新鮮な感触を得られると思います。

 本のサイズはA5でページ数は144枚。前作と完全に同じサイズ、同じ厚さとなっています。その意味でも、これは前作と対になる一冊といってもいいでしょう。もちろん、内容は完全に独立していて、前作とは一切関係ありませんが、前作とあわせて読んでいただけるとよりおもしろいのではないかと考えます。

 前作も刷りなおしましたので、近々再販します。前回入手しそこねた方はあらためて入手されて読まれてみると楽しいかな、と。

 ちなみに今回はゲスト原稿はほとんどありません。レスター伯による「解説」を除くと、原稿用紙400枚強、すべてぼくが書きました。それも執筆が難航した原因のひとつかもしれません。まあ、量が多すぎた。個人的にはそれくらいの分量がないと読みごたえがないと思うんですけどね。「長編」だし。

 価格は前作同様、コミケ価格1000円。通販価格1300円です。とにかく、ぼくにとっては「一応はこれで死ねるな」と思うくらい全力投球の一冊になっています。そのため、決して気楽に読み捨てられる本当はいえないかもしれません。しかし、熱量には自信をもっています。熱いよ。夏なのに。

序幕「発端」

第一部「α」

第一幕「エスカレーション」

始発駅「アルデバラン――戦場感覚」
第二駅「ベテルギウス――レジスタンス」
第三駅「プロキオン――ただ一本の「道」」
第四駅「ヒアデス――穴のあいたパラシュート」

第二部「Ω」

第二幕「殺人事件」

第五駅「リゲル――ハートカットガールズ」
第六駅「カストル――ひとでなしとひとと」
第七駅「ポルックス――タナトスのエロス」
第八駅「プロキオン――遙かなる中原へ」
第九駅「カペラ――あいのうた」

第三部「αでありΩ」

第三幕「言葉、言葉、言葉」

第十駅「カノープス――メメント・モリ 花のテーマ」
第十一駅「プレアデス――修羅の生命螺旋」
第十二駅「シリウス――星は生きている」
終着駅「ポラリス――ポラリスの銀河ステーション」

終幕「きみにささげる花束」


■各章内容解説■


●序幕~終幕

「ああ、海燕さん、最近大変みたいですね」
 開口一番、ペトロニウスさんはそういってくれた。いつものことだが、このひとの声には何かひとを安心させるようなものがある。決して穏やかなだけの人柄ではないはずだが、それでも何かひとをほっと安堵させるようなふしぎな「力」があるのだ。ぼくはそういってもらったことで、自分がどれだけ消耗していたのか、初めて気づいたくらいだった。

 前回に続いて評論と並べて小説が掲載されます。今回は落ち目のもと人気ブロガー「海燕」を主人公にした私小説ふうの作品になっています。「Something Orange」をお読みの方にはおなじみの(?)かんでさん、ペトロニウスさん、敷居さんなどが登場します。このうちひとりは死にます(笑)。いろいろと洒落にならない話であるかもしれません。

●始発駅「アルデバラン――戦場感覚」

 わたしたちは戦場を生きている。銃弾が飛びかい疫病がはやる最前線で、血をながし泥をすすり戦いつづけている。過酷な日々に心は乱れ、肉体は病む。魂は嗚咽し、神経は狂う。それでも逃亡は許されない。そもそも逃げる場所などない。その戦場は現代社会といい、わたしたちはひとりのこらずそこに住んでいるのだから。

 「戦場感覚」に対する解説を開始する第一章です。ちなみにこの本では、各章は「駅」と題され、星の名前が付いています。各地の銀河ステーションをおとないながら、広漠たる大宇宙を旅していくイメージです。終着駅は「ポラリスの銀河ステーション」。これはあるたましいの銀河旅行の物語なのです。

●第二駅「ベテルギウス――レジスタンス」

 かれらが考える「悪いこと」とは「教室内での「身分」をわきまえないこと」であり、それに比べれば殺人ですら決して「悪」とはいえないのである。このようなある集団での支配的な価値を、わたしは「覇権価値」と呼ぶ。ひとりひとりのいじめ加害者は、実は教室空間の覇権価値である空気至上主義の奴隷であるに過ぎない。

 「いじめ」や「差別」をテーマに、ひとをそういった悪に加担させるものについて考察しています。ひとを悪へと導くもの――それは「蛇」と「システム」。ひとは内なる蛇に誘惑され、外なるシステムに操られて悪を犯す。それでは、どうやってそれに対抗するのか、というおはなし。

●第三駅「プロキオン――ただ一本の「道」」

 そう、おそらくは「少年」の生き方を最もよく表す言葉は、「道」である。地平線の果てまで続く、ただ一本の「道」。「少年」は果てしなくその道を歩みつづける。それが、それだけが、かれの生き方なのだ。

 「少年の夢」の話。「少年の夢」というテーマは前作でも扱いました。今回はそれをふたたび取り上げています。これが唯一、前作からひき継いだテーマです。というのも、前作を書き終えたあと、何か書き足りないという印象があったのです。もちろん、前作とはべつの角度から題材を切り取っています。

●第四駅「ヒアデス――穴のあいたパラシュート」

 「愛」は誘惑する。わたしを手にいれれば、お前の苦しみは終わるのだ、と。わたしはすべてを持っている。それを何もかもお前に与えよう、と。しかし、わたしたちは「愛」とは壊れたものであることをしってしまった。もはや無邪気に「愛」を礼賛することはできない。

 第三章のテーマが「少年」ということで、第四章のテーマは自然、「少女」に決まりました。少女といえば少女漫画、ということで、この第四章ではさまざまな少女漫画について語り倒しています。さらに桜庭一樹なんかについても語っています。何しろぼくは男なのでっわからないところも多いと想いますが、精一杯がんばりました。

●第五駅「リゲル――ハートカットガールズ」

 家族が寝しずまった頃、ひとりしずかにベッドから起きあがると、机の奥にしまった使い捨てメスを取り出し、そっと、肌のうえを滑らせる。既に何本もの線がはしる肌のうえに、また一本、赤い筋が出来あがる。まるで他人の肌であるように、痛みはほとんどない。それは「乖離」と呼ばれる現象であると、何かの本で読んだ。

 第五章のテーマはリストカットを初めとする「自傷行為」です。自らおのれのからだを切り刻み、傷めつけるというこのなぞの行為に、ぼくは「戦場感覚」を見て取りました。この平和な平穏な世界にあって、修羅の葛藤を生きる少女たち。ぼくは彼女たちを「ハートカットガールズ」と呼びます。

●第六駅「カストル――ひとでなしとひとと」

 かれはこの世界は流刑地であるといってはばからなかった。ほんとうにあるべき「真世界」を離れ、なぜともしれず誤って生まれてしまった流刑の地。そこで生きていかなければならないという絶望。

 戦場感覚は、自然、「ひとでなし」というイメージを呼び寄せます。乙一、シオドア・スタージョン、江戸川乱歩、中井英夫といった作家たちの作品を取り上げています。また、有川浩のことを少しばかり批判的に語ってもいます。有川浩は「ひと」の作家であり、「ひとでなし」の文学とは相容れないと思うのです。

●第七駅「ポルックス――タナトスのエロス」

 それでは、そのゴスが戦場感覚とどのようにかかわるのか。いうまでもない。戦場と死は兄弟の関係にあるのだから、戦場感覚とゴスもまたきわめて近しい間柄といえる。わたしは、戦場感覚者のグランドテーマとは「戦場である世界でいかに生き抜くか」であると書いた。しかし、「世界は戦場である」というグランドルールからは、自然、負けても良い、死んでもかまわないというもうひとつの価値も導きだされるはずである。

 折り返しの第七章。この章では、一時期はまっていた「ゴシック」について語っています。ゴシックミステリやテクノゴシック、ゴスの沃野は広漠無辺なのですが、一章で語れるかぎりのことを語りました。知識不足から人形愛について語れなかったことは残念です。まあ、仕方ないけれど。

●第八駅「プロキオン――遙かなる中原へ」

 そして、いつ果てるともなく続く、孤独な戦い――それは、「不信」という病をともなっている。ひとが信じられなくなるという、病。それはあまりにも当然のことだ。なぜなら、たやすくひとを信じれば、いつ裏切られるともわからぬのだから。そうして、裏切られたら最後、待つものは死だ。だから、ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、物語が進むにつれ、ひとを信じることができなくなっていたのだ。

 前作に続いて、作家栗本薫を取り上げています。ただし、前作が『グイン・サーガ』の一登場人物に焦点を絞ったのに対し、今回は栗本薫の作品世界全体を取り上げるものになっています。栗本こそは戦場感覚の作家です。彼女の全作品、ボーイズ・ラブからヒロイック・ファンタジーにまで共通する要素が戦場感覚なのです。

●第九駅「カペラ――あいのうた」

 あなたはかけがえがない。わたしもまた、かけがえがない。世界はかけがえのない音で満たされた、二度とは再演されない音楽である。わたしはそんな世界を、わたし自身を愛する。

 第二部を締めくくる第九章のテーマは「愛」です。この世に無償の愛、無条件の愛というものが存在しえるのか。存在しえるのだとすれば、それはどのようなかたちを採るのか。そんな内容となっています。気恥ずかしいような話ですが、おもしろいのではないかと。そして本書は怒涛の第三部に突入します。

●第十駅「カノープス――メメント・モリ 花のテーマ」

 栗本薫のボーイズラブ作品におけるレイプ描写が趣味的なものではありえないように、虚淵の少女に対する加虐描写も単に趣味的なものではない。それはこの世の真実を描き出している。

 第三部開始。この第三部はひとつづきの話となっています。つまり、この第十章から第十三章まではほんとうはひとつの章なのです。この章では『魔法少女まどか☆マギカ』などを取り上げながら、テンションを上げていっています。ほんとうは奈須きのこと虚淵玄で一章を割く予定もあったのですが、結果的にはそうはなりませんでした。

●第十一駅「プレアデス――修羅の生命螺旋」

 おとぎ話のハッピーエンドはいつもこのように語られる。「そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました」。この「いつまでも続く」ということこそ、「幸せ」の理想であるといえるだろう。だが、それを「幸福」と呼ぶならば、「いまある状態からさらに高くまで駆け上がりたい」という想いを何と呼ぶべきなのか。

 『AIR』のことなどを語っている章です。この章の役割は、続く十二章、十三章への橋渡しといっていいでしょう。このあたりからいよいよテンションは上がりはじめ、読むほうもおそらく何かしらのドライブ感をもって読めると想います。いよいよクライマックスなのです。

●第十二駅「シリウス――星は生きている」

 わたしたちは、すべてのことに慣れ、何もかもあたりまえだと思ってしまっている。りんごの木にりんごの花が咲く? なんだ、あたりまえじゃないか、というふうに。しかし、わたしたちが幼い頃、それは決してあたりまえなどではなかったはずである。それはまさに驚異の事実であったはずなのだ。

 十三の駅を経巡る「銀河鉄道の旅」も、ついにシリウスまでたどり着きます。この章で語られているものはチェスタトンの「正統」の思想です。ほんとうはこの章を最終にもってくる予定だったのですが、そこからさらなる高みをめざすために、十三章構成ということになりました。が、この章のテンションも高いと思います。

●終着駅「ポラリス――ポラリスの銀河ステーション」

 そうして、どれくらい時間が経ったことだろう。周囲を見まわせば、いつのまにか金いろ銀いろの雪がはらはらと降りしきり、降り積もっている。どこからか銀河ステーション、銀河ステーションと告げる声が聴こえる。ああ、いつのまにかずいぶん遠いところまで来てしまった。ふりかえってみれば、ほら、地球があんなに小さい。そうか、いよいよ空へ還るときが来たのだ。さようなら。さようなら。さようなら。わたしはついに「わたし」から解放される。

 そうして、旅の終着点、「ポラリスの銀河ステーション」です。北極星をめざす旅は、ここで終わることになります。北極星とは何の象徴なのか? それはお読みいただければわかることと思いますが、まあ、この旅そのものがひとの人生の暗喩といっていいでしょう。作中のテンションはついに最高潮に達し、そして潮がひくようにしずまっていきます。

■サンプル■

 本編第一章をサンプルとして公開します。

 始発駅「アルデバラン――戦場感覚」

 0.出発。

 甲高く汽笛が鳴り、車掌がゆっくりと手をふると、星の平原を往く黒い列車は、颯爽と走りはじめる。

 銀河列車、出発進行。

 1.戦場感覚とは何か。

 わたしたちは戦場を生きている。銃弾が飛びかい疫病がはやる最前線で、血をながし泥をすすり戦いつづけている。過酷な日々に心は乱れ、肉体は病む。魂は嗚咽し、神経は狂う。それでも逃亡は許されない。そもそも逃げる場所などない。その戦場は現代社会といい、わたしたちはひとりのこらずそこに住んでいるのだから。

 いまから「戦場感覚」の話をしよう。戦場感覚。それは文字通り、自分は戦場に生きているという感覚である。まどろみに似た平和が続くわが国だが、ある種の人々はこの感覚をもって暮らしている。むろん、それは本物の兵士の感覚とは異なるだろう。しかし、世界をひとつの戦場と考え、人生を不断の闘争と捉えるなら、どれほど平穏な時代にも戦場感覚の持ち主がいて当然ではないだろうか。いまこうしているあいだにも、世界各地では無数の「戦い」が続いている。軍隊による戦闘行為ではない。もっと象徴的な意味での「戦い」。本書全編を通じ、わたしはその意味での「戦い」について語るつもりである。どうか飛ばさず読みすすめていただきたい。

 さて、本書の内容はすべて上記の「現代社会は戦場である」という事実から演繹されている。事実。そう、わたしにとってこの一文は動かしがたい事実である。あるいは、こう書けば、あなたは失笑していうかもしれぬ。戦場だと。現代ほど恵まれた時代がないことを知らないのか、きみの戦場はひとりも死者を出さないらしいな、と。わたしは答える。死者ならいる。およそ年間三万人も、と。この数字は日本の年間自殺者数である。わたしたちの戦場では、兵士は自ら頭を撃つ。そこでは敵味方の区別が定かではないから、最後には自分を撃ちぬくほかなくなるのだ。わたしたちは自分殺しの戦場を生きている。

 ただ、早合点しないでほしい。わたしは日本の自殺率の高さ(2010年時点で世界第6位)そのものを問題にしたいわけではないし、政治や経済の問題について語りたいわけでもない。わたしがいまから語ろうとしていることは、必ずしも現代特有の問題ではない。いまより花やかに見える80年代、90年代も、社会はやはり戦場であった。より正確にいえば、社会を戦場と感じる人々は存在した。かれらは自分が戦場の住人だと「知っている」。知識ではなく、実感で理解している。それが戦場感覚である。

 あなたはこの感覚を理解できるだろうか。何か大げさなことをいっているとしか思われない方が大半かもしれない。それでは、あなたは生きていることが辛いと感じたことはないだろうか。特に理由もなく、ただ何となく苦しく、いたたまれなく、消えてしまいたいと思ったことは。もしあるのなら、あなたは戦場感覚を推測できる。戦場感覚とは、つまり日常的にその種の苦悶と戦っている感覚である。

 戦場感覚者にとって、世界は楽園ではない。むしろそれは困難にみちた荒野である。かれは楽園を否定しないが、自分自身はどうしようもなくそこから疎外されていると感じている。戦場感覚者とは楽園のアウトサイダーなのだ。

 「アウトサイダー」。それはコリン・ウィルソンの著書のタイトルだ。ウィルソンはその本で、サルトル、カミュ、ロレンス、ゴッホ、ニジンスキー、ドストエフスキー、ブレイク、グルジェフといった人々を「アウトサイダー」として並べあげた。この世界の倫理や常識の外側(アウトサイド)にいる人々、というほどの意味である。そして、ウィルソンは、かれらアウトサイダーは何億という「インサイダー」たちよりはるかに優れた人種なのだと力説した。インサイダーがのんきに眠りこけているとすれば、アウトサイダーはまさに覚醒しているのだと。

 ウィルソンのアウトサイダーとわたしがいう戦場感覚者には共通項も多い。しかし、根本的なところが違っている。アウトサイダーが多く孤高の天才であるのに対し、戦場感覚者はときに強い劣等感、自己否定感を抱えているという点である。なぜなら、かれは世間の人々があたりまえにこなすことがどうしてもできないからだ。たとえば戦場感覚者はときに部屋から一歩外へ出るだけのことにも深刻な恐怖を感じる。いうまでもない、そこが戦場だからだ。戦場感覚者にとっては、時にただあたりまえの日常を生きるだけのことも「戦い」なのだ。

 もっとも、必ずしも戦場感覚者がわかりやすい被害体験を抱えているとは限らない。何か明確なスティグマを抱えているものもいるだろうが、そうでないものもいる。そして、何の被害体験もなくても、深刻な「生きづらさ」と戦っているものはみな戦場感覚者である。そういったものにとっては、たとえば教室に一歩足を踏みいれることがひとつの「戦い」なのだ。戦場感覚者にとって世界は戦場であり、生きることは戦いである。わたしは戦場感覚の根底をなすこの事実を、すべてのルールの大元にあるルールという意味で「グランドルール」と呼ぶことにしたい。

 戦場感覚者にとって、グランドルールは世界の最も根本的な理である。グランドルールを骨身にしみて認識するところから、戦場感覚者の人生は始まる。そしてまた、グランドルールからは必然的にひとつのテーマが導きだされる。即ち、「戦場である世界をどう生き抜くか」。これを、戦場感覚者にとっての究極のテーマという意味で「グランドテーマ」と呼ぼう。戦場感覚的な物語は、自然、このグランドテーマに沿ったものとなる。

 本書では乙一、栗本薫、桜庭一樹、虚淵玄といった作家たちの戦場感覚的作品を取り扱う。かれらの作品は、その苛烈さ、容赦のなさが共通している。しかし、それは決して趣味的なものではなく、かれらの戦場感覚から導きだされた必然なのである。かつて岡崎京子は著書『リバース・エッジ』に一篇の詩を付した。ウィリアム・ギブスン「平坦な戦場で僕らが生き延びること」。本書もまた「平坦な戦場で生き延びること」を巡る本だ。願わくは、本書がひとりでも多くの戦場感覚者の友とならんことを。

 2.コギト。

 しかし、そう、先走りすぎたかもしれない。まずは何をいっているのかわからないというあなたのために、レッスン1を開始しよう。まず、「あなたに見えている世界はあなただけのものである」と納得してもらいたい。

 簡単な話だ。わたしたちは同じものを見るときも、ひとりひとり異なる主観を通しそれを見ているということ。たとえば同じりんごを見るときも、異なる観点で見ているはずである。極論するならわたしたちはそれぞれべつのりんごを見ているといえる。その意味で、わたしたちは孤独だ。どんなに大勢の仲間といるときもひとり。なぜなら、自分に見えている世界を分けあうことはできないのだから。愛する恋人が何を考え、何を想っているのか、その本当のところは一生わからない。コギト・エルゴ・スム。わたしたちは絶対孤独という牢獄の囚人である。

 もうすこしわかりやすい話をしよう。トロンプ・ルイユ(だまし絵)と呼ばれる絵画技法がある。ある一枚の絵が、見方により異なる絵柄に見えてくるというものだ。それはひとの主観の奇妙を思い知らせてくれる。ある部分を背景として見たときと、人物として見たときでは全く違うものが見えてくるふしぎ。このふしぎが世界そのものにもあてはまる。世界とはひとつのだまし絵なのだ。ふだんはなかなかそうとは知れないものの、わたしたちの主観は百人百様である。客体はひとつ。しかし、ひとはそこに主観的な「感想」を上書きする。熱烈な信仰者の目に壁のしみが聖者の顔に見えたりすることはその典型であろう。

 そう考えると、ひとによってある物語の見え方が違ってくることは必然である。わたしたちが小説や映画で物語を楽しむとき、当然、それぞれ異なる感想が生まれる。しかし、一方でその作品は感想がひとつにまとまるよう計算されており、自然、メジャーな感想とマイナーな感想というものが生まれる。たとえば、人魚姫が泡になり消えていく場面の感想は「人魚姫が可哀想」というものが大方を占めるであろう。しかしまた、「人魚姫の生き方は美しい」という感想もありえる。前者は憐憫、後者は讃嘆である。

 前者の見方を採る人物にとって、人魚姫の物語はあくまでも悲劇と映る。後者の見方を採る人物にとっては必ずしもそうではない。かれは、たしかに人魚姫は泡になり消えたが、恋に殉じたその生き方は素晴らしい、と捉える。その意味でこの物語は必ずしも悲劇はいえぬ、と。ここには思想の差異がある。前者にあるものは不幸を哀れむ思想であり、後者は不幸と戦うことを称える思想である。前者は「結果」を見、後者は「過程」に注目する。わたしが本書で取りあげたいのは後者の思想だ。その「結果」がどうであるかではなく、そこにいたる「過程」をこそ問い、「戦うことそのもの」に価値を見出す思想。それは戦場感覚者の価値観である。そこには「戦うもの」に対するリスペクトがある。その思想においては、人魚姫は一方的な同情の対象ではない。同じ「戦い」を戦う同志である。彼女は敗れたかもしれぬ。しかし、その生涯そのものは崇高であった。戦場感覚者はそう考える。

 これは社会の結果主義と真っ向から対立する思想だ。現代社会において、わたしたちは何より「結果」を求められる。ある意味で公正なことである。畢竟、「過程」など計測しようがないのだから。結果主義は正しい。しかし、わたしたちはその「正しさ」に疲れてはいないだろうか。結果主義の行き着くところは順位表である。わたしたちの人生は順位表に縛られている。わたしたちは「競争」こそ生の本質だと錯覚してすらいる。より座り心地の良い椅子、それこそが人生だ、と。

 わたしはその価値に「否」を突きつけよう。人生とは座り心地の良い椅子ではない。人生とは、果てしなく続く歩みそのものである、と。かつて順位表を人間の存在価値そのものにまであてはめようとする学問が存在した。悪名高き優生学である。優生学は生命の価値を優生と劣生に分け、劣生とされた生命を社会から排除しようとした。その思想がかのナチスドイツによる大量虐殺の思想的背景となったことは有名である。いまではだれもナチスの暴挙を支持しないことだろう。しかし、どうだろう、わたしたちの内面には、いまなおこの優生思想が根を張っていはしないか。

 あなたはいうかもしれない。わたしは何ら人種偏見を抱いてはいないし、遺伝学の知識もある。わたしにとって優生学など過去の悪夢であるに過ぎない、と。本当にそうだろうか。それではなぜ、わたしたちは大半が自分の子供に五体満足であってほしいと願っているのか。親として、あまりにも当然の願いではある。しかし、この祈りはじかに優生思想に繋がっている。自分の子供に障碍があってほしくないと願うことは、この世に障碍者がいないほうが良いと願うことである。ここには「内なる優生思想」がある。内なる優生思想はわたしたちに優しく囁く。劣生なる「生」は、周辺に多大なる迷惑を及ぼすばかりか、本人にとっても不幸である。わたしたちは本人のためにもかれらの人生を静かに閉ざしてやるべきなのだ。むろん既に生きている人間を殺すことはナチスの悪夢の再現だ。だからより良い方法を用意した。生まれてくる前に「生」を断ってしまうのだ。それなら、不幸な人生を未然に予防できるばかりか、倫理的にも何ら問題はないではないか、と。

 このようにして選択的中絶のシステムが生まれた。選択的中絶の「選択」とは、遺伝子の選択を指す。現在、生まれてくるまえの子供を遺伝子調査し、中絶することは一般に行われている。このシステムによってわが子を中絶した両親は罪悪感すら抱かずに済むかもしれぬ。嬰児を殺したわけではなく、単に受精卵を潰しただけなのだから。ひとつの科学の夢。いずれ遺伝子調査の技術がいまより進歩したなら、すべての先天的な障碍を未然に調査し中絶することが可能になるかもしれぬ。それはすべての人間が「健常」な肉体と精神を持つ社会へと繋がる。それは楽園だろうか。一面ではそうである。しかし、それは「障碍者」と呼ばれる人々の「生」を否定する優生思想的な社会でもある。

 障碍者などいないほうがいいに決まっているではないか、とあなたはいうかもしれぬ。本人にとっても、その「生」は苦痛であるに違いないのだから、と。しかし、それはやはり「健常者」の思いあがりである。むろん、すべての「障碍者」が幸福な人生を送っているはずもないが、それは「健常者」であっても同じことだ。障碍と不幸を等号で結ぶ根拠はない。仮にすべての「障碍者」が不幸な人生を歩まざるをえないとするなら、それは社会の責任だろう。

 3.ヒューマンエンハンスメント。

 一方、魔術的な現代社会においては中絶以外の方法で「生」を曲げる方法も存在する。ヒューマンエンハンスメント(人体強化)である。

 エンハンスメントとは、先天的、あるいは後天的に人間存在を強化しその能力を増進させようとする方法を指す。たとえば薬物投与やサイボーグ化による能力増強はエンハンスメントにあたる。エンハンスメントを否定することはむずかしい。たとえば、わたしがふだんかけている眼鏡などもある種のサイボーグ化であり、エンハンスメントである。視力回復、増進をもたらすレーシック手術もエンハンスメントにあたるだろう。エンハンスメントは既に社会に深く入り込んでおり、わたしたちはもはやそれを放棄できない。

 エンハンスメントの魅力を、たとえば森薫の漫画『エマ』に見ることができる。作中、主人公エマが初めて眼鏡をかける場面がある。それまでぼやけていたエマの視界は、一気に鮮明に変わる。見える! その感動は彼女の人生を変革する。なんぴともこのエマの感動を否定できないだろう。

 しかし、だからといってエンハンスメントを全面的に受け入れることはできない。たとえばマラソンレースを1時間で走り切る人間、円周率を百万桁まで暗唱できる人間、そういったエンハンスメントに、あなたは何か不気味なものを感じないだろうか。そこには、何かが間違えているのではないか、と思わせるものがある。

 このエンハンスメントの問題について、昨今、日本でも有名になったかのマイケル・サンデルが本を著している。その本『完全な人間を目指さなくて良い理由』のなかで、サンデルは、エンハンスメントは生命の被贈与性を損なうと記している。ひとにとって新たに生まれてくる生命はすべて「贈り物」であるべきであり、それを好き勝手に改造することは何かしらの道徳的退廃をもたらす。わたしたちは「招かれざるものへの寛大さ」を保持するべきなのだ、と。宗教的に過ぎる信条だと思われるだろうか。しかし、ここには何か真実の響きがある。生の被贈与性。それこそ生命の本質ではないか。ある意味でそれはわたしたちの「生」の実感から最も遠い概念であるかもしれぬ。わたしたちは「生」を操作可能なものとして扱うことに慣れている。が、それはわたしたちの「生」を根底のところで損なっているとも思うのだ。

 エンハンスメントはスポーツの世界にも忍び寄っている。最もわかりやすい例はドーピングである。しかし、そもそもドーピングの何が悪いのだろうか。肉体の健康を損なうことか。それなら将来、無害な薬物が開発されたならドーピングを受け入れるべきなのか。それができないとしたら、なぜだろう。ドーピングは競技の公正を損なうという見方もある。それなら全選手が「公平に」ドーピングを行うようになったらどうだろう。あるいは通常のオリンピックとはべつに「ドーピングピック」を開いたら。

 それは観客の興味を集めるかもしれない。そこには100メートルを8秒で駆け抜ける選手、500キロのバーベルを持ち上げる選手などが登場するだろう。わたしたちは人類の常識を絶した奇跡の目撃者となる――しばらくして見飽きるまでは。そう、それはたしかにおもしろい見世物ではあるに違いない。しかし、それはスポーツの本質を致命的に損なっている。それはけっきょく見世物にとどまるだろう。なぜなら、ある選手が薬物を用いて素晴らしい成果を収めたとしても、素晴らしいのは薬物であって、選手ではないことはあきらかだからである。それはスポーツとはべつの概念として――たとえば、最新強化薬物の品評会として――意味を持つかもしれないが、少なくとも観衆に感動を与えるとは考えがたい。わたしたち人間は最速の選手ですらチーターより鈍足だが、だれもそれを恥ずべきこととは思わない。スポーツの本質はそこにはないのだ。

 わたしたちがスポーツに感動するのは、そこに積みあげられた時間を見るからである。わたしたちはある選手が時速40キロで走るから感動するわけではない。そうではなく、その選手が、時速40キロで走るにいたるまで自分を鍛えあげた事実に感動するのである。いわば、わたしたちは金メダルという「結果」に圧縮された「過程」を見ている。そうでなければドーピングもサイボーグ手術もたいした問題ではないはずではないか。

 そしてまた、人生そのもの、「戦い」そのものを評価し、敬意を払う戦場感覚的価値観から見れば、エンハンスメントは無意味である。それは「結果」を改善する(時速200キロの球を投げる投手を作り出す)かもしれない。しかし、戦場感覚的価値観は「結果」を重視しない。それはあくまでも生きることそのものにこそ価値を見出す。そこには「順位表」はない。ランキングもヒエラルキーもない。わたしたちの社会には、たぐいまれな天才もいる。能なしの凡人もいる。「健常者」もいる。「障碍者」もいる。戦場感覚者の価値感は、かれらの「生」そのもの、「戦い」そのものに価値を見出す。その価値観では、たとえばホームレスの若者は社会の敗残者というより、より厳しい状況でタフに生き抜いている勇者として見えてくるだろう。

 最後に、そこから導きだされるわたしの信仰について話しておきたい。それは、すべての子供たちは祝福されて生まれてくるべきだという信仰である。いま、ある子供たちは涙と笑いに包まれて生まれてくるが、べつの子供たちを迎えるのは哀しげな沈黙である。が、本来、すべての「いのち」は祝福されていてしかるべきではないだろうか。新しく生まれてくる「いのち」、どこか遠いところからこの世界に呼ばれてやってきた「いのち」に対し、わたしは呼びかける。ようこそ、この世界へ。ようこそ、歓迎する。あるいはきみの「生」は苦しみとともに出発するかもしれないが、それだけで終わることはないだろう。たとえきみが生涯、自分の足で立ち上がることがないとしても、大丈夫、きみを支えようとする人々はたくさんいる。だから何も心配はいらない。安心してこちらへおいで。ようこそ、この美しき地上へ。ようこそ、この豊かな世界へ。何度でもいおう。ようこそ、ようこそ、と。

 わたしは信じる。いかなる重い運命を背負った子供も、あたたかな祝福の声に包まれて生まれてくる資格があると。それがわたしの信仰である。

 わたしは、信じる。

 4.「蛇」との戦い。

 しかし、この「信仰」に対してはすぐさま反論が返ってくることが予想される。それは綺麗事だ、なるほど「内なる優生思想」は悪であるかもしれぬ。しかし、それはいわば必要悪であって、わがもの顔で得々と理想論を語るお前にしても、現実に障害を持った子供ができたとき、その事実から逃避しないか怪しいものだ。お前の理論はしょせん机上の空論であるに過ぎない、と。

 的確な反論である。わたしはいくらでも正論を述べることができるが、いざそれが現実になれば、狼狽するに違いない。わたしは「わが子は障碍児でも健常児でもどちらでもかまわない」と言い切れるほど立派な人物ではない。内なる優生思想は紛れもなくわたしの心も蝕んでいる。しかし、それでもなお、わたしは「内なる優生思想」に屈服はしない。仮にわたしのパートナーが妊娠したとしたら、そのとき、わたしの「戦い」は始まるだろう。

 わたしは「そうはいってもやはり子供は健常であるほうが良い」と考える自分と直面するかもしれない。それは「わたしの内なる蛇」の誘惑の声である。蛇はわたしの耳元で囁く。障害児を世話することになったら、どれだけ手間がかかると思うのだ。それにお前は本当にそんな子供を愛せるのか。さあ、偽善的な道徳など捨ててしまえ。大人になって現実を見るのだ、と。はたして蛇の囁きを拒むことができるかどうか、それはそのときになってみなければわからない。しかし、ひとついえることがある。わたしは弱々しくも戦うだろう、ということだ。

 内なる蛇とは、むろん自分自身のことである。わたしの心の弱さや楽をしたいと思う気持ちを仮に「蛇」と呼んでいるに過ぎない。したがって蛇との戦いは「葛藤」と呼ぶべきだ。非情な現実を前にして、わたしは悩み、迷い、葛藤することだろう。そのプロセスが、即ち「戦い」である。わたしの「戦い」は孤独だ。なぜなら、それはわたしの内面で起こる「戦い」だからである。

 わたしはむろんパートナーと相談するだろう。あるいは両親や友人にも意見を求めるだろう。しかし、かれらがわたしの「戦い」を代わりに戦ってくれるわけではない。わたしはひとり、自分自身と戦わなければならない。わたしの内なる蛇は強力だ。それはさまざまな手段を用いてわたしを誘惑してくる。わたしは弱い。あるいは蛇の誘惑に敗れそうになるかもしれない。

 そのとき、何がわたしを助けてくれるだろう。それはやはり、同じような「戦い」を戦ってきた先達たちの存在にほかならない。わたしはただひとりわたしの内なる蛇と戦っているが、しかし、同じように自分のなかの蛇と戦った人々がいる。その事実は、わたしを勇気づけてくれるだろう。そしてまた、わたしがそうやって弱々しくも戦いつづけることが、遠くだれかを励ますことに繋がるかもしれない。そうやって、わたしたちの「戦い」は広がってゆく。戦場感覚とは、この「どこかに同じ「戦い」を戦っているひとがいる」という実感のことでもある。

 ここであげた「内なる優生思想」との戦いは一例に過ぎない。わたしたちは人生の様々な局面で「内なる蛇」や「外なるシステム」と戦うことになる。それを戦いと実感している人間が即ち戦場感覚者である、といういい方もできるだろう。

 わたしたちはみな、戦場に生きている。これは、世界のグランドルールである。一方で、あるひとはその戦場を楽園と思い、またあるひとは煉獄と認識する。そして、かれらにとっては、それはじっさいにその通りのものであるのかもしれない。しかし、わたしは世界を戦場と捉える。そしてそういうもの人々の「戦い」の話をしようと思う。かれらの敵はときに「蛇」であり、ときに「システム」である。

 次回以降では、さまざまな局面での「戦い」について語ることになるだろう。

■解説■

 レスター伯による解説を公開します。

 解説

「やりたければやればいいよ
 それがお前の理屈なら

 じゃあ俺は俺の理屈で
 お前の内蔵を引きずり出して
 屈辱的な死に様を世界中に晒してやる」

浅野いにお『うみべの女の子(1)』

 どうも、レスター伯です。何の因果か、『戦場感覚 ポラリスの銀河ステーション』の解説を書く事になりました。「いや誰だよ、お前?」という方も大量にいらっしゃるかと思いますが、何を隠そう、海燕さんから直々に解説の依頼を受けた僕自身が一番驚いている自信があります!

 まあ、そんな前置きは本当にどうでもいいので、早速解説に入ってしまいたいと思います。たった十枚程度の文章ですので気楽にお読みいただけたらと思います。

 本書は2010年の冬コミで頒布された『BREAK/THROUGH たとえあなたがエヴァに乗らなくても』に続く、海燕さんの二冊目の同人誌になります。

 前著巻末の予告とはいささか異なる内容になっていますが、分量・熱量ともに前著に負けない、むしろ上回る仕上がりになっている事は保証できます。

 解説を書くために予め原稿を渡された訳ですが、圧倒的な筆致が迫ってくる感覚は非常に心地よく、むさぼるように読み切ってしまいました。詳しくは後述しますが、特に中盤以降は書き手である海燕さんのテンションが如実に上がってきていることが文章を通して伝わってくるため、それにつられるかたちで読み手の側もえも言われぬ高揚感を味わうことができるでしょう。

 こうした至極の読書体験を得ることこそが、本書を読む最大の意義の一つだといえるでしょうし、もし先にこの解説を読んでいるという希少な方は震えて待っていただければよろしいと思います。

 こうした体験をできるのは、海燕さんという書き手がアジテーターとしての性質を強くもっているということに起因するのだと思います。本書は大量の小説・漫画・アニメーションを取り上げながら書かれているわけですが、評論というにはあまりにも主観に寄りすぎていわざるをえません。銀河を巡りながらポラリスを目指すという体裁をとっている『戦場感覚』は、前著『BREAK/THROUGH』以上に目的へと向かって突き進んでいくという性質が強い著作です。

 その意味で、本書はマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』がそうであるように、読者を導く、いや、煽動し歩ませようとする「アジテーションの書」であり、同時に海燕さん自身の理念と信念をぶちまけた「宣言の書」であるといえるでしょう。『BREAK/THROUGH』を紹介する記事を書いたときには「評論小説」という言葉で表現したのですが、本書を読んだ後ではその表現が非常にぬるく感じられます。

 そして、「戦場感覚」ほど「宣言の書」にふさわしいテーマはないでしょう。始発駅「アルデバラン――戦場感覚」で定義されているように、本書における「戦場」とは実際に銃弾が飛び交う狭義の戦場に限られている訳ではなく、むしろ僕たちが生活している日常空間に「戦場」は偏在していると定義されています。その上で「生きづらさ」と向かい合いながら、「戦場である世界をいかに生き抜くか」というグランドテーマを抱いて生きている者達のことを「戦場感覚者」と呼び、戦場感覚者である物語の登場人物や、彼らの生みの親で作家達の象徴的な「戦い」の軌跡が描かれているのです。

 また、世界の理の外にはじき出されているものの、その常人(「インサイダー」)よりも優越な存在だと見なされるような孤高の天才(「アウトサイダー」)と分類されるような人物だけでなく、むしろ他人から見れば何ということのないコンプレックスを抱えながらも、「日常空間」を支配するルールと戦い続ける無名の存在を取り上げようとする点も、海燕さんの戦場感覚の特徴の一つでしょう。例えば、より厳しい「戦場」に身をおいている戦場感覚者として障碍者に光が当てられ、たとえ苦しみにみていたとしても彼らの「生」は祝福されるべきであると高々と謳い上げられています。

 このように「生」という戦いの輝きを何よりも重視する姿勢は、海燕さん自身が戦場感覚者であり続けることを宣言していることに他なりません。確かに『Something Orange』や『BREAK/THROUGH』を通じて築き上げられてきた実績は、海燕さんをカリスマ的な「アウトサイダー」足らしめるには十分だといえます。しかし、海燕さんの本質は、数えきれないほどの作品や現象に関する文章を書く形で戦い続けてきたこと、そして今も戦い続けていることにあります。

 正直に告白すれば、僕は1年前まで海燕さんの存在を全く知りませんでした。それが前著『BREAK/THROUGH』で示された感覚にシンクロし、その共感に文章の力でドライブかかることで、海燕さんという存在に強烈に惹かれていったわけですが、その時にあったのは僕の目に入らなかった所で自分と同じような作品を体験し、同じような考えをもっている人が存在していたんだという感慨でした。その上で、本書『戦場感覚』を通じて、ようやく巡り会えた同志が戦ってきた歴史の重みと、そして今なお戦場で戦い続けている姿をまざまざと見せつけられたわけです。人間賛歌を高らかに謳い上げた前作以上に、その賛美と裏表の関係にある戦場感覚者達の戦いの輝き、美しさ、強さを描いた今作は、自身も戦場感覚者である海燕さんのレゾンデートルの証明たる作品になっているといえるでしょう。

 自己証明に関しては、テーマが戦いという事でアジテーションの色合いが単に強くなったという面だけでなく、文章や美に対するこだわりが強く打ち出されている点にも見いだすことができます。前著でもそうだったように感じたのですが、グイン・サーガと栗本薫論あたりを境に筆致が一気に勢いを増し、戦場感覚者たるキャラクター/作者の戦いの描写以上に、文章の力で読者をトリップさせてしまいます。それと同時に戦場感覚というテーマに貫かれた本書の「旅」も、「美」、「愛」、「死」、そして「生」といったより根源的なテーマをより深く追い求めるようになっていきます。

 本書『戦場感覚』における、こうした文章へのこだわりとテーマの選択は、「『美』の戦場」における文章での戦いを続けてきた海燕さんの戦いの軌跡を象徴的に示しているといえるでしょう。

 さて、ここまで解説のようなそうでないような何かを書き連ねてきたわけですが、少しばかり僕自身のことを照らし合わせながら、戦場感覚とは何なのか考えてみたいと思います。

 僕の大学時代の恩師は、学園闘争に身を投じた人でした。最近にわかに1968年に関する出版物が増えてきており、客観的な歴史として語られるようになってきている感がありますが、飲み会の席で僕は恩師から何度も繰り返し体験としての学園紛争についての話を聞かされてきました。

 もちろんセクトによって実態は様々であり、祝祭的な雰囲気があったことは否定できないでしょうが、学園紛争の時代の大学は間違いなく「戦場」であったといえるでしょう。真の革命の成就のために「ロシア語版」の『資本論』を輪読し、ソ連や北朝鮮に共産主義の夢をみた学生達の中には強烈な戦場感覚者が存在していたはずです。

 ただし、戦いを続けることはきわめて困難です。革命における最大のパラドックスとはその正否にあるのではなく、むしろ権力の転覆に成功/失敗した後にあるのです。つまり、革命という戦場が消失してもなお、戦場感覚を保ち続けることができるのか、それこそが問われるべき問題であるはずなのです。

 恩師は大学紛争が下火になった後に大学院へと進学し、最終的には国立大学の教授になるわけですが、常に自らが戦ってきた権威の下で安穏と学問を続けていくことに疑問をもちつづけていたといいます。大学を去り、職工として工場で働きながら、労働者として戦い続ける道を選んだかつての仲間に対するコンプレックスをぬぐい去ることは自分にはできないと語る恩師の姿は、今でも忘れることができません。

 幾分アナクロな話に聞こえるかもしれませんが、『戦場感覚』を読み切ったときに僕の脳裏に真っ先に浮かんできたのは恩師の姿でした。「権威に対して喧嘩を売ることができない学問に何の意味があるのか?」、「今世界中でおこっている紛争に対して、何のリアクションも示すことができない学者に存在意義はあるのか?」という問いかけは、形は違えど、本書において海燕さんが戦場感覚者として宣言したことは重なるのではないかと思うのです。

 豊穣な未来のために、戦場感覚が求められているのかもしれない。

 「サンディカリスムの神髄は、ソレルやマルクスが何と言おうと、“職場の主人公はあくまでもひとりひとりの労働者なのだ”という頑固なまでの自負が、直接、社会革命の回路につながっているところにある。
 ......もとよりサンディカリスムや自主管理社会主義に豊穣な未来が約束されているというわけではない。にもかかわらず、ひとつだけ言っておかねばならないことは、少なくともサンディカリスム的契機を欠いた社会主義や革命運動は、今以上に抑圧的な社会を生み出すだろうということである。」

谷川稔『フランス社会運動史』
 

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