こんな事件があったそうな(以下引用文はインデントと改行を付け加えています)。

 1970年に盗まれた巨匠ゴーギャンとボナールの絵画が、イタリアの工場勤務の男性宅から見つかった。入手経路が遺失物の競売であったことから話題になっている。

 ロンドンの民家から盗まれた二枚の絵画は、パリとイタリアのトリノを結ぶ列車に放置されていた。1975年に競売にかけられて男性が落札。その値段は4万5000リラ、日本円にして約3000円であったという。警察によればゴーギャンの絵画は1889年の作品で、時価14億円以上の価値がある。

http://getnews.jp/archives/549907

 『ギャラリーフェイク』あたりに出て来そうな話だな、と思うわけですが、この件で興味深いのは、「絵の価値ってどのくらいの能力があれば判定できるのだろう?」ということです。

 つまりひと目見て、ゴーギャンの絵だとはわからないまでも、「ああ、この絵はすごい! 無名の描き手かもしれないが、数千円で買ったものかもしれないが、しかし凄い! 天才だ!」と感じるひとはどれくらいいるのだろうか?ということ。

 「これはゴーギャンのサインが入っているから傑作だ」という判定方法は絵画を見る時、最低だと思うんですよね。ようするに絵画そのものではなくその描き手の名前によって判定しているに過ぎないわけですから。

 しかし、じっさいにはけっこうな数のひとがその種のものの感じ方をしているのでは?と思うわけです。そしてそれは案外、絵画に関係しているひとでも変わらないのでは……。

 「まったく無名の作家の作だが、信じられないような傑作だ」とか、「これはピカソのなかではまったくの駄作としか云いようがない」とか判定するためには、それなりの「目」が必要になると思うのですが、じっさい、そのレベルの「目」を持っているひとってどのくらいの割合でいるんでしょう。もちろん、ただ自信満々に断定し切れば良いというものではないことわけですし。

 で、それはただの話の枕。何の話をしたいかと云うと、ぼくは「ひとの美醜を判断する能力」が平均より低いのではないか、ということなんですよね。

 まあ、ぼくも男の端くれとして美人は好きです、と云いたいところなのですが、どうも「ひとの評判によらず、自分の価値観によって美人を判定する」ことはぼくにはむずかしいのではないかと思わずにはいられません。

 アイドルとか、女優とか、どこらへんに魅力があるのかよくわかっていない気がしてならない……。つまりは、正直云って、ぼくには美人とか美少女とかいうものの本質があまりよくわかっていないのではないか、と感じることがよくあるのです。

 ひとはよく顔立ちの美醜を自明のことのように語るけれど、ぼくはそこらへんに対して鈍感らしい。センスがない、と云ってもいい。

 ところがところが、ふしぎなもので、「絵に描かれた顔の美醜」はわかるのですねー。メンヘラちゃんかわいいよハァハァとかは問題なくできる。

 なぜなら、そこには「描き手の意図」があるからで、それを言語的に理解すれば「美しい」と認識することができるわけなのです(「アウクソーのこのほっそい足すげー」とかね)。

 しかし、ひとの顔は一応は自然物であり、その種の「意図」が、ないわけではないにしても薄いために、その「美醜」というものが、ぼくにはよくわからないということになるのだと思います。

 まあ、普段、イケメン爆発しろとか云うのですけれど、じっさいのところ、どういう顔がイケメンなのかもよくわかっていない可能性がある。

 木村拓哉とか福山雅治とか、たしかに美形だなあとは思うのですが、しかしその顔から目を逸らしてしまうと、もう具体的にどんな目鼻立ちだったのか思い出すことができません。

 この能力の低さは、ぼくのなかで地図を読む能力の低さと関連付けられています。ひっきょう、ぼくは「ある画像を認識し、記憶し、再現する能力」が平均よりだいぶ低いのだと思う。

 これは、ぼくの生涯の劣等感と密接に関わっている特性です。ぼくに絵を描けとか木工を作れとか無茶云うんじゃねえよー。ぼくは脳のそこらへんの機能が欠損しているんだよー。と、云いたいところだったのですが、まあ、聞いてもらえなかった……。

 ひとは「手先の器用さ」以前に「物体の形状を把握する能力」が著しく低い人間のことを、なかなか理解してはくれず、ただ笑い飛ばすのみです。

 いや、それも、ぼくというプログラムそのものに問題はない、ただオペレーション・システムかグラフィック・ボードが