そうすると、部族社会で殺し合っている人々の願いは、統一なんですね。国際社会は、統一国家として独立して初めて、意見を述べることができる。ところが、部族社会というのは、言い換えれば、統一のシンボルが部族(=血縁とか)による社会だということで、国民的アイデンティティを統合するシンボルを欠いているんですね。アフリカとか中東の地域を非常に遅れた地域として蔑む気持ちが先進国に生まれるのは、この統合国家と視点シンボルを独力で築き上げる、、、言い換えれば、国家という部族での利害を超えた幻想の「正しさ」を生み出すことのできない人々という意識があり、これは、たぶん鶏と卵の議論ではあるものの、否定できない。

http://ameblo.jp/petronius/day-20071202.html

 ペトロニウスさんのこの話を枕に、『ファイブスター物語』の話をしよう。

 ぼく、この作品、大好きなんだけれど、何しろ異常にややこしい設定が絡んでいるため、詳しく話そうとすると未読の人にとっては何が何だかわからないことになってしまうんですよね。そこで、未読の人にはいいたい。

 読め!

 話の進展が遅かったり、時々何年もの休載に突入するという欠点はありますが、天才永野護による日本を代表する傑作です。この機会に読んでおきましょう。

 その『ファイブスター物語』の第6巻から第8巻にかけて、主人公であり超大国A.K.D.(アマテラス・キングダム・ディメンス)の皇帝である天照が、ある湿地で行方不明になる事件が語られている。

 当然、A.K.D.は軍隊を発進させて天照の身柄を確保しようとするが、運悪くドラゴンが生み出す「命の水」を求めるシーブル国軍と戦闘に陥ってしまう。

 しかし、天照が行方不明という情報を流せば国際紛争の契機にもなりかねない。そこで、司令官たちは下に何ひとつ情報を漏らすことなく戦闘を強要せざるを得なくなる。

 さて、ここで上の記事に繋がる。

 この際、A.K.D.の戦車隊が、巨大な戦闘ロボット、モーターヘッドに戦車で突っ込み、玉砕していく場面がある。もちろん、彼らは戦車でMHに勝てないことを知っている。

 それは、天照が一国の国王という次元を超えて、A.K.D.そのものだからである。戦車隊のリーダー、ユーリ・バシュチェンコの言葉を引用しよう。

「マラーホフ!! ファジーチェフ! グリロローヴィチ! ベリヤエフスキー!! 各戦車隊長聞け!! この作戦はA.K.D.の威力制圧などではないっ!! 我がA.K.D.の存亡をかけた戦いなのだ!! 敵MHを止めよ!! 各主砲はビラケルマモードにせよ 一発でも多くの弾をMHに当てろっ!!」

 ここまで聞いた部下たちからは、「ムチャ言うなよ!! MH相手によ~~っ 死ねってか?」という声が上がる。当然の反応である。しかし、バシュチェンコの次の言葉を聴いて、彼らは当然のように死地に赴く。

「湿地で救出を待っておられるのは我らが光皇その方である!! 戦車隊!! いやA.K.D.軍人としてその働き 陛下にお見せしろ!!」

 なぜこの言葉を聞いて部下たちは無謀な命令に従う気になったのか? それは、天照がA.K.D.の統帥であり、スーパーカリスマであるからだけではない。

 このことを理解するためには、A.K.D.が天照家が治めるグリース王国を初めとする十の国家から成る連合国家であることを頭にいれておく必要がある。

 デルタ・ベルン星一つを有するこの国は、実に一千年に渡って天照に治められている。逆にいえば、その間、デルタ・ベルンは平和だったということだ。

 ジョーカー星団のほかの大国、フィルモアやハスハさえもしばしば戦乱に巻きこまれていることに比べると、これは凄まじい格差である。しかし! もし、ひとたび天照帝その人の身が失われたなら、そのすべてが一気に崩壊するかもしれない。

 つまり、A.K.D.にとって天照こそが唯一の統合のシンボルなのであって、その天照が失われたなら、A.K.D.の平和も繁栄も供に失われ、デルタ・ベルンは再び戦乱の世に帰って行くかもしれないのだ。

 戦車でMHに突入した戦車隊の隊長たち、天照ひとりを守るためでなく、A.K.D.を、その平和を守るために彼らは死地に赴くのである。ほんの数秒、数十秒でも天照の身柄を危険からそらすことが出来たなら、その死には意味がある。

 そして、逆に、兵士を指揮する側は、何千、何万の兵士を殺そうと、天照ひとりを守らなければならない。しかも、その理由を兵士に説明することは出来ない。

 当然、兵士たちのモラルとモチベーションは低下していくばかり。しかし、それでもなお、天照の存在はすべてに優先する。人命よりも! 人道よりも! 倫理よりも道徳よりも! 天照のほうが重要なのだ。

 しかし、かれらは知らない。やがて、その天照帝そのひとによって、ジョーカー太陽星団に史上最大の大戦争の火蓋が切って落とされることを。星団暦3159年。星団統一戦争、モナーク・セイクレッドの始まりである。

 ――というような記事を、以前、書いたのですが、これは「マクロの大義」についての記事なんですよね。

 まあ、つまりアマテラスの帝という個人には、何千何万の人命を超越した価値があるということで、それは民主主義社会に生きるぼくたちから見るといかにも愚かしくも見えるのだけれど、そうじゃないというお話。

 ぼくはこの記事をある種の現代的価値観へのカウンターとして書いたと思うんだけれど(もう忘れた)、最近の話をしていてふと思い出し、見つけ出しました。

 ここでは「マクロの大義」は「ミクロの人生」より重要なのだ、というような文脈で作品を語っているのだけれど、もちろんそうではないという価値観もありえます。

 何といっても、アマテラスひとりを救い出すために現実に無数の人々が死んでいるわけで、そしてその死んだ兵士たちひとりひとりにとって自分の人生は代替が効かないものなのです。

 べつに「マクロの大義のために死ね!」といわれる謂れはないよな、と。いや、かれらは軍人だからそういう義務があるかもしれないけれど、ぼくたち一般大衆はちょっとマクロの大義のために死んでくれといわれても困ってしまうよね、と。

 しかし、同時に国家運営などのマクロ的決定はミクロの個人への情に流されて決定されてはいけないことも事実なのです。「こいつら可哀想だから保障を増やしてやろう」とかいうことで決めてはならない。アマテラスその人は決してその点を間違えない人物という設定なんですけれどね。

 で、ここでちょっと話が飛躍するのですが、「マクロの大義」が「ミクロの個人」を圧殺しようとする時、ミクロの個人にどのような抵抗ができるかと考えるんですね。

 ここで、抵抗するな、マクロに殉じろということもできるんだけれど、まあやっぱりそれは無理だと思うんですよ。「希望は、戦争。」(http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html)でもないけれど、社会全体が自分を見捨てたと感じたら、それでも社会に忠誠を尽くしつづける気にはなれないよなーと。

 そこで戦争とかテロリズムを希望したとしても、論理的に批判し切ることはむずかしいんじゃないでしょうか? また仮にそうしたとしても、「じゃ、おれは非社会的存在になることを選ぶよ。社会はおれに何もしてくれないし」といわれたらそれまで。

 「お前に裂くリソースはないからそこで死んでいけ」といわれた人間が、おとなしく死ななければならない理由もないよなと。

 まあでも、