さて――あまり遊び呆けてばかりでいると、せっかく増えた会員がどんどん逃げて行くようなので(あたりまえだ)、いいかげんまじめな更新を再開しましょう。

 北崎拓の『ますらお』が新作の発表を決定したとのことなので、それについても何か書きたいところなのですが、とりあえずはリハビリにいま読み返している小説の話でも。

 と云っても、流行の新作でも何でもありません。きょうは過去にも何度かふれたことがある栗本薫の『翼あるもの』を読んでいました。再読、再再読、いや何度読み返したかわからない作品なのですが、ふしぎと飽きません。

 栗本がデビュー前に書き綴ったこの上下二巻の長編小説は、美しくもあえかに切ない至上の傑作です。おそらくは彼女の数百はある長編のなかでも、最高の一作と云っていいでしょう。

 『絃の聖域』などもそうですが、二十歳かそこらの女性がこれを書き得たという事実は、やはりある種の「天才」を感じさせてなりません。

 ぼくは栗本の早い晩年の作品もそれはそれで読むに値すると考えているし、じっさい読んでいるのですが、それにしても、若き日の、発表することすら考えずに書かれた作品の赫々たる輝きは、不世出の才能を示して余りあるものがあります。そうして、その異端さと。

 『翼あるもの』は、いわゆるボーイズ・ラブものの最初期にあたる一作です。BLというジャンルが存在しなかった頃に書かれた作品で、いま読み返してみると、いかにも時代錯誤で苦笑いしてしまうところもありますが、しかし、一読、読者の心を捕まえて離さない強烈な引力があります。

 おそらく、そう感じないひとにとっては、何が面白いのかわからない小説ではあるでしょう。しかし、それを感じ取るアンテナがある人間はその潔癖、その失意、そのもの憂い諦念を、いかにもヴィヴィッドに感じ取ることができます。

 『翼あるもの』は、栗本が生涯抱えた二面性を上下巻というかたちで示しているところがあります。

 いかにも若々しく、みずみずしく、溌剌とし、それでいて、心老いた者の倦怠に充ちた世界――本来、一体ではありえないものが、ひとつ入り混じり、互いに反発しあいながら、辛うじて一本の物語を成しているとでも云うような、そんな緊迫感に充ちた小説空間。

 栗本のなかのエロスとタナトスとは、この小説においては、ふたりの登場人物にそのままに仮託されています。

 この物語の一方の主人公は、スターのなかのスター、神に選ばれた天才と云われる今西良であり、もう一方の主人公が、その良に敗れて芸能界を去った美貌の青年、森田透です。

 良は、特別美しい顔立ちでもないにもかかわらず、生命感あふれる天才児として、「生きること」のかぎりない歓びを表し、透は死にとり憑かれたかのように、何もかも鬱陶しく、億劫だとしか考えることができません。

 このふたりの人生が、ときに離れ、ときに交わり、ひとつの時間をふた通りの方法で語ってゆく、それが『翼あるもの』です。

 ひとによっては、興味がないどころか、おそらく嫌悪をそそってやまないであろう小説ではありますが、ぼくはこれが好きでなりません。

 特にぼくを惹きつけるのは、やはり透の物語を綴った下巻「殺意」です。ここには酒と、病と、倦怠と、失意しかありません。怒りや憎しみですらも長くは続かない。透はあたかも種としての生命力が欠けているかのように、ひたすらにもの憂く生きていくのです。

 栗本薫は、宮﨑駿のように「生きろ」とは決して云いません。「生きねば」と思いさだめることもありません。ただ、まだ死んでいないから、生きてゆく――そういうキャラクターを平気で書きます。