やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。8 イラスト集付き限定特装版 (ガガガ文庫)



 ペトロニウスさんがひさしぶりに長文記事を上げているので、これを引きつつ、ぼくも記事を書いてみたいと思います。

 ちなみに、ちょっと補足しておくと、最後に、ヒッキーが、選択肢を間違えたかもしれない?というのは正しくて、本当に「守るべきもの」は、奉仕部ではなかったんですよね。守るべきは、3人のドラマトゥルギー、、、3人の関係性を守るべきだった。関係性を「今のままに固定する」というのは、実は、一番の破壊行為です。だって、出会いと偶然が積み重なって、3人のそれぞれのドラマトゥルギーは、動き出しているのだもの。特に、今回は明確にゆきのんのターン。それが発展して、変わっていけるために必要な場を3人で考えるべきが正しかったんだ。それは、3人で生徒会をやるでもいいし、なんでもよいんだけれども、意思をもって、自分を取り巻く関係性をドラマトゥルギーを開いて、自分自身を変えていこうという意思を持たなければならなかった。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131129/p1

 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の記事なので、この作品を未読のひとには何を書いているのかわからないかもしれませんが、この際、それは関係ありません。

 ぼくはこれから、ちょっとべつの話を展開したいと思います。それは「対話」の困難ということです。

 ペトロニウスさんはここで、エーリッヒ・フロムの古典的名著『自由からの逃走』を引用し、「~からの自由」(消極的自由)と「~への自由」(積極的自由)のことなどを話しつつ、現実世界に関与して「絆」を作り上げてゆくことのすばらしさを高らかに語っています。

 そして、そのためには、相手の、自分でも気づいていないような本心を探りだす「話しあい」が必須であるということも記しています。

 しかし、とここでぼくは思うわけです。じっさいの話、話しあうとは何とむずかしいことなのだろう、と。

 たとえば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の脚本について、序盤の段階で、ミサトたちがきちんと碇シンジと話しあっていればその後の問題は起こらなかった、と語る人がいます。

 ミサトやアスカたちの人間としての未熟さを非難する論調です。それはたしかにそうかもしれない、とぼくも思います。

 ですが、それなら、そう云うひとは、ほんとうにいつも人ときちんと向き合って、大人として「対話」することができているのでしょうか?

 それはもちろん「人による」としか云いようがないわけですが、ぼくは怪しいものだと思います。ほんとうの意味で「話しあう」とは、それくらいむずかしいことなのです。

 いや、「話す」だけなら