カルバニア物語 (11) (キャラコミックス)
「なに言ってんのエキュー だって〝女〟が爵位をもつんだもの あたりまえのことじゃない〝妊娠〟も〝出産〟も これからもずーっと 女におこりうることは全部そのまま降りかかってくるのよ」
 『カルバニア物語』待望の第11巻。あいかわらず、おもしろかった。どれくらいおもしろいかというと、読み終えた瞬間に第12巻も待望になってしまうくらい。この巻は第10巻から1年半も間が空いているけれど、そのあいだに『チキタGUGU』や『ラビット・ハンティング』が出ているから、ま、大目に見よう(偉そうだね)。

 タイトルからわかるとおり、この作品の舞台はカルバニアという架空の王国。まだ十代の王女タニアが、この国で初めての女王として即位したあたりから、物語は始まる。口うるさい貴族やら老臣やらに支配された王宮で、タニアが心を許せるのは、親友の公爵令嬢エキューだけ。

 古くさい慣習やしきたりと悪戦苦闘しながら、ふたりは少しずつ女性の地位と権利を確立していく。ある種、フェミニズム的といえなくもないけれど、堅苦しく考える必要はない。

 ときには頭の固い男たちと衝突しながらも仕事に励むタニアたちの姿は、ほとんど現代のOLそのもの。何も考えなくても十分楽しく読めると思う。

 この作品がフェアなのは、ふたりの少女を囲む男性たちが、たんなる型通りの性差別主義者ではなく、それなりの思想と良識をそなえた大人である点。たとえば、しょっちゅうエキューに小言をいう大貴族のタキオは、彼女に「私の何が気にくわない?」と詰め寄られて、こう答える。
「エキュー 気にくわないことなどひとつもない 本当のことを言おう いつも君には敬服している 君は公正で勇気があって努力家で そりゃあ大した女だ 君こそはきっとタンタロット公爵がおつくりになった最高傑作だろう」
「だからこそいい人生を歩んでほしいんだ 確実な良い人生を 君には愛する男に手をひかれて安全な美しい道を歩いてほしい 意外に思うだろうけど 私もハゲたち((エキューの親類の貴族のこと。なぜか全員ハゲ。))だって君の幸せを心から願ってる だからカルバニア初の女公爵なんて 誰も経験したことのない冷たい風の吹く荒地みたいな場所に君を立たせたくないんだ 君の美しい顔が苦痛にゆがむのを見たくない 君を気に入っている だから私はこうしてここにいるんだ」
 かれはかれなりにエキューのことを考えているのである。

 そしてまた、次代のタンタロット公爵を投票によって選ぶことが決まったとき、エキューの恋人であるニックス公爵ライアンはいう。
「エキュー おまえ本当にちゃんとわかってるのか!? もしもおまえがタンタロット公爵になってしまったら もはやもう絶対に私たちの結婚なんかありえないんだぞ…………!! おまえはどーだか知らないけど 私はおまえと一緒になりたいんだよ だからおまえには投票しない」
 かれらは、エキューの夢にとって障害ではあるが、しかし、決してただ保守的なだけではない。エキューやタニアに匹敵する深い内面のもち主として描かれている。

 もちろん、きびしく見ていけば、タキオの主張はパターナリズム(父性的温情主義)に過ぎないし、ライアンはバイセクシュアルであるにもかかわらず、「結婚」という異性愛的制度に囚われている。

 しかし、こういった男性たちの態度のリアリティこそが、この物語をシンプルな「女の子の自立物語」以上に奥深いものにしているといえるだろう。こういう作品を読むとあらためて、いままで日本のファンタジィで性差の問題がどのように描かれてきたかと考えさせられる。

 たとえば、栗本薫の『グイン・サーガ』で、主役級の活躍をする人物は、ほぼ男性に限られている。女性もたくさん出てくるのだが、どうも、あまり良い役をもらっているとはいえない。全体的に見て、男性陣のひき立て役にとどまっていると思う。

 主人公のひとりであるアルド・ナリスなどは、あからさまなミソジニー(女性嫌悪)を抱えていて、幼馴染みのリギアは、「ナリスさまは女など人間とも思っていない」と嘆く。

 田中芳樹の『アルスラーン戦記』では、男性に混じって女性たちも活躍するが、やはりもうひとつ印象が薄い(と、ぼくは思う)。ほかにもいろいろ作品はあるが、海外の女性作家の作品に比べると、日本のファンタジィの性差描写は面白みに欠ける、とぼくには思えた。

 ところが、時代を下ると、女性の描き方も変わってくる。たとえば、小野不由美の『十二国記』の舞台は、性差別というものがほとんど存在しない世界である。この世界では、女性が出産することはなく、子供たちは特殊な果実から生まれてくる。それもあって、ぼくたちの世界とは、性別にかんする考え方が違うのだ。

 『十二国記』全編を通して問われるものは、常にひとりの人間としての生き方であり、考え方である。その人物が男であるか女であるか、そんなことは副次的な問題に過ぎない。

 ほかにも、荻原規子の『西の善き魔女』などは、女性が支配する国家の裏側を描いた、とても興味深い作品である。しかし、何といってもこの点で印象的なのは、茅田砂胡『デルフィニア戦記』だろう。

 この作品、初めはライトノベル的な装丁でノベルスとして出版されたのだが、改めてもっと地味な表紙で文庫化し、大人の読者の支持を得ている。おもしろいのだ。物語の主人公はリィという名の美少年。少年ではあるが、その容姿は絶世の美女そのもの。

 かれはもともとべつの世界の住人だったのだが、その世界にやって来る過程でなぜかからだが変化してしまったのである。この「かれ」は、そこでデルフィニア国の王ウォルと出逢い、やがてウォルの王妃を演じることになる。偽装結婚だ。

 となれば、このふたり、くっつくのかな、愛しあうようになるのかな、と思うのだが、そうはいかない。ふたりは、深く信頼し、思いあっているが、それは性愛には発展しない。考えてみれば当然である。ふたりともヘテロセクシュアルの男性なんだから!

 でも、この事実に気づいたときはちょっと衝撃を受けましたね。自分の感性が「物語のなかで男と女が出逢ったら、愛しあい、結ばれる」というロマンス小説的価値観に汚染されていることに気づいたから。

 『デルフィニア戦記』には、『グイン・サーガ』にあるような性別による人物描写の格差はほとんどない。その意味で、この小説はあたらしい世代のファンタジィといえる。しかし、とぼくは思ってしまう。たしかに、リィは、既存の性別による役割の押し付けを超越している。少年の姿でも、女性の姿でも、かれはかれであり、自由に振る舞う。

 マイケル・ムアコックのドリアン・ホークムーンものでは、主人公が女性に変身するくだりがあるが、それは別人になることを意味していた。それに対し、リィは男性の肉体でも女性の肉体でもリィなのだ。そういう意味で、かれはジェンダーを越境するヒーローである。

 だが、結局、それはかれが美貌で、無敵の戦闘力と高い知性をかねそなえているからこそできることなのではないか。リィはたしかにヒーローだが、あまりにもパーフェクトにヒーローでありすぎ、ぼくには遠い存在に思えた。

 そこで、エキューの話に戻る。エキューもたしかにカルバニア一といわれる美少女だ。そして、その時々によって男装したり女装したりして好き勝手に振る舞う。そこだけ見ると、まさに性差を超越した人物に見える。しかし、その内面はじつは欠点だらけ。

 何しろ大貴族のご令嬢だけあってわがままで自分勝手、剣こそ達人だが弓の腕は最悪(エキューが弓を握ると周りは逃げ惑う)、そして少年のように小さな胸(タニア曰く「貧胸どころか無乳」)にはコンプレックスを抱いていて、利きもしない豊胸薬を買いあさる。

 傑作なのが第11巻に収録されたエピソード。エキューがカルバニア初の女公爵になることが決まったこともあって、ホルグの女領主ニコールは娘を次期領主に育てようとする。ところが、その娘がいうには、
「本当は私は……ずっと家にいて愛する人のためにお料理したりお裁縫したりしているかわいい〝お嫁さん〟になりたいんです でもお母さまにその話をすると〝時代に逆行している〟とか〝古くさい漬物みたいな考え方〟とか言われちゃって…」
 この話を読むと、この物語のなかでは、けっしてエキューの生き方だけが理想とされているわけではないことがわかる。じっさい、「みごとに女公爵を育てた」と賞賛され、どうやって育てたのか訊かれるエキューの保守的な叔母ハットン夫人は、困惑しながらこう叫ぶ。
「私はエキュー・タンタロットなんか育てていません!! あの子は勝手にああなったのっ」
 人それぞれ、ということですね。そういうわけで、お奨めの作品です。おもしろいよ。