ピアニシモでささやいて(8) (フラワーコミックス)



【ひとを縛る想い】

 最近――でもなく、以前からずっと「自己憐憫」とか「怨みや呪い」について考えています。

 ひとはなぜ、自分を哀れんで地獄に落ちるのか? 自分より幸福そうに見えるひとを怨んで呪うのか?

 ぼくにはそうすればするほどによりいっそうそのひとの境涯は辛くなっていくように思えます。

 たしかに、この夜はまったく平等ではない。イケメンの奴もいれば不細工の奴もいる。金持ちの奴もいれば貧しい奴もいる。それが現実。

 社会システムがどれほど「機会の平等」を整備しても、「結果の平等」を保証することはできません。

 人間が人間であるかぎり、何らかの格差は存在しつづけるでしょう。それは「個性」を云い換えたものに過ぎないのですから。

 一切の格差がない社会とは、一切の個性が認められない社会です。ぼくにはそれはひとつのディストピア(反理想郷)であるように思えます。

 社会システムにできることは、一定のセーフティネットを用意することと、「機会の平等」を実現するくらいで、格差そのものを消滅させることは不可能なのです。

 たとえば美容整形が進歩すればいまより容姿の格差はなくなるかもしれません。しかし、その社会でもセンスあるルックスを選ぶひともいれば、いまひとつ平凡な容姿に終わるひとも出て来るでしょう。

 どこまで行っても恵まれた者と恵まれない者はおり、「怨み」や「呪い」が消え去ることもないのです。

 しかし、ほんとうにひとは自己憐憫とルサンチマンのなかでしか生きられないのでしょうか?



【孤独な独裁者】

 自分だけが可哀想だと思っている価値観、自分こそが世界一可哀想な悲劇の主人公でなければならない考え方とは、ようするに