もう消費すら快楽じゃない彼女へ (幻冬舎文庫)

 渡辺文重さんのブロマガ記事「コンテンツ過多時代。どのようにコンテンツと向き合うべきか?(『プチ鹿島の思わず書いてしまいました!!』ほか)(http://ch.nicovideo.jp/sammy-sammy/blomaga/ar350752)」で取り上げられているのを見て思い出したのだが、ぼくは以前、こんなことを書いていた。

 いわゆるオタクをやることがいまほど簡単な時代はないだろう。もはやお金すらたいして必要ではない。無料で楽しめるコンテンツがいくらでもあるからだ。

 ただ、もちろん、その自由と豊穣に代償がないわけではない。たとえばiPodで音楽を聴くことが常識になった時代にアナログレコードに慎重に針を落とす快感が失われてしまったように、「一期一会」の真剣さをぼくたちの時代はなくしてしまったのだと思う。

 かつての貧しい社会においては、「物語」はぼくたちがいまそうしているようにシャワーのように浴びるものではなかっただろう。そしてそのぶん、多くのひとたちが一度きりの体験をシリアスに享受していたはずだ。

 街頭テレビの前に集まってドラマを見たひとたちといまのぼくたちと、どちらが物語を楽しんでいるだろう? その答えは簡単には出ない。あるいは昔のほうがよほど真面目に物語を楽しんでいたかもしれない。

 「いくらでも選択肢がある」ということが、ひとつの作品に集中しつくすことをさまたげている一面はあるのではないか。

 しかし、とにかくぼくたちは量的な豊かさを選択してしまったのだし、いまさら昔に戻れるはずもない。これからもぼくたちは膨大な、あまりに膨大な量の作品群に溺れながら、自分にとっての「黄金の一作」を探しつづけることだろう。

 ここらへんのことは実はずーっと考えていることなんですね。

 ごく客観的に見て、ぼくたちは量的にも質的にもかつてない「コンテンツの黄金時代」を経験しているはずだ。

 「最近のアニメは全然ダメ」的なことを云うひとは多いし、価値観はひとそれぞれなので一概にその意見を否定はできないわけだけれど、かれこれ四半世紀もオタクコンテンツを追いかけているぼくから見ると、アニメにしろ、漫画にしろ、ラノベにしろ、平均的なクオリティはずいぶん上がっているのではないかと思う。

 特にアニメやゲームのクオリティアップは恐ろしいものがある。

 たしかに専門家的な目で技術的な問題を検証していけばいろいろ問題はあるのかもしれないけれど、まあひと目見てきれいなアニメやゲームが増えたよね、と。

 いろいろ文句を付けられがちなライトノベルの文章だってずいぶんうまくなっている。

 たしかにこれはないのではないかという作家もいるが、そういう人は文章以外のどこかに並以上の魅力を持っているわけだ。いい時代になったなあ、と心から感じる。

 もちろん、量的にも最近はものすごいことになっている。いわゆる「オタク系」の作品だけに話を限るとしても、なんという膨大な作品が発売されていることか。

 アニメ業界は崩壊寸前だとかゲーム業界はブラックだとかはよく云われることだけれど、受け手としてはやはり作品の数が多いことはありがたい。

 近頃は中国や韓国の作品も輸入されるようになって来ているので、この流れが進んだらさらに膨大なコンテンツを消費することができるようになるだろう。

 素晴らしい。まったく素晴らしい。しかし、上記しているように、「でも、これでいいのだろうか?」という気分があることも事実だ。

 あまりにも「美味しいものをたくさん」味わっているせいで、