渡辺文重さんのブロマガ記事「コンテンツ過多時代。どのようにコンテンツと向き合うべきか?(『プチ鹿島の思わず書いてしまいました!!』ほか)(http://ch.nicovideo.jp/sammy-sammy/blomaga/ar350752)」で取り上げられているのを見て思い出したのだが、ぼくは以前、こんなことを書いていた。
いわゆるオタクをやることがいまほど簡単な時代はないだろう。もはやお金すらたいして必要ではない。無料で楽しめるコンテンツがいくらでもあるからだ。
ただ、もちろん、その自由と豊穣に代償がないわけではない。たとえばiPodで音楽を聴くことが常識になった時代にアナログレコードに慎重に針を落とす快感が失われてしまったように、「一期一会」の真剣さをぼくたちの時代はなくしてしまったのだと思う。
かつての貧しい社会においては、「物語」はぼくたちがいまそうしているようにシャワーのように浴びるものではなかっただろう。そしてそのぶん、多くのひとたちが一度きりの体験をシリアスに享受していたはずだ。
街頭テレビの前に集まってドラマを見たひとたちといまのぼくたちと、どちらが物語を楽しんでいるだろう? その答えは簡単には出ない。あるいは昔のほうがよほど真面目に物語を楽しんでいたかもしれない。
「いくらでも選択肢がある」ということが、ひとつの作品に集中しつくすことをさまたげている一面はあるのではないか。しかし、とにかくぼくたちは量的な豊かさを選択してしまったのだし、いまさら昔に戻れるはずもない。これからもぼくたちは膨大な、あまりに膨大な量の作品群に溺れながら、自分にとっての「黄金の一作」を探しつづけることだろう。
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