Crowds ガッチャ盤(期間限定)

 はろー。という時刻でもないですが、時間が余ったので更新しておきます。

 いやー、いいですね、『ガッチャマンクラウズ』!

 今季の穴馬作品ですが、これは完結したらメルクマール的な作品になるかもしれない。期待は高まるばかりです。

 露骨に時代のコンテクストを読みまくった上でそれを超克しに来ている気がしてなりません。

 はたしてほんとうに乗り越えられるのかどうかは最終回を見るまでわかりませんが、ひさしぶりに夢中になってアニメを見ることになりそうです。

 『恋愛ラボ』とかもそれはそれでおもしろいんだけれど、やっぱり原作既読である以上、「次はどうなるんだろう?」というワクワクドキドキはないわけで、時代のカッティングエッジをリアルタイムで追いかけられる感動と興奮はひさしぶり。

 ちなみに、

『ガッチャマンクラウズ』って作品、ご存知ですか? ここ最近アニメブロガーで著名な人たちが次々にこの作品の絶賛レビューを書いていて、この作品の何が人々の語りを誘発するのか気になりますね~。いわば『クラウズ論壇』()とでも呼ぶべきものが発生しております。

http://dokaisan.hatenablog.com/entry/2013/08/05/222651

 ということで、著名なアニメ系ブロガーがたくさんこの作品を見て絶賛感想をアップしているらしいのですが、それも当然でしょう。

 ちょっと見ただけでもこの作品が過去のさまざまな作品を参照しつつ乗り越えようとしていることはあきらかだからです。

 個人的には「『東のエデン』2.0」と呼びたいくらい神山健治監督の作品とテーマ、ガジェット的な共通項がありますね。

 24日からに日テレオンデマンドで無料放送するらしいので、みんな見るのだ!

 いま云ったように『東のエデン』が好きなひとには文句なしにオススメです!

 以下、いくらかネタバレしながらこの作品について語っていきますが、できれば作品のほうを先に見てほしい。いや、じっさいこれはとんでもない傑作かもしれませんよ?

 まあ、このブログとかペトロニウスさんの「物語三昧」、LDさんの「漫研」あたりを常習的に読んでいるひとなら、一発で文脈を読み取っておもしろがれるのではないでしょうか。

 もちろん何も考えずに見ていても十分以上におもしろい作品だと思いますけれどね。

 『ガッチャマンクラウズ』は、ひとことで云うなら「新しい」アニメです。

 べつに映像と演出と音楽のオサレ感だけを見てそう云っているのではなく、文脈的に2013年の最先鋭を行っていると思う。

 現在、1クールの物語はまだ中盤ですが、それでも、ゼロ年代から(もっと前から)脈々と続いている「ヒーローの孤立」の問題を扱いながら、その解答として示された「クラウズ(群衆)による解決」という回答の問題点をも把握し、おそらくは前代未聞の「第三の解決策」を提示しようとしているところなど、震えるほどスリリングです。

 こう書いたのでは何が何だかわからないかもしれません。簡単にぼくが考えるこの作品の背景を説明しておきましょう。

 さて、戦後のエンターテインメントの最大のテーマとは何でしょう。

 いろいろな答えがあると思いますが、ぼくなりの答えは「どうやって正義を貫くか?」です。「いかにして世界を救うか?」といい換えても良い。

 これは太平洋戦争以後、日本のエンターテインメント業界に脈々と受け継がれてきたテーマなのだと考えています。

 LDさんによれば、戦後すぐのエンターテインメントでは、ヒーローも「世界を救う」といった大きな仕事を背負っていたわけではなく、せいぜい犯罪者を取り締まるといった程度のことをやっていたのだと云います。

 そういう牧歌的な善と悪の対決を、絶対善と絶対悪の黙示録的対立にまで先鋭化させていったのは、石ノ森章太郎『サイボーグ009』や『仮面ライダー』あたりらしい。

 とくに『サイボーグ009』は「悪とは何か?」という問いを突き詰めまくったあげく、ついに「人間こそ悪なのだ」という「人間悪」の問題を発見してしまいます。

 で、このテーマをさらにとことんまで突き詰めた結果、全人類絶滅まで持って行ってしまったのが永井豪のあの名作『デビルマン』です。

 まあ、この漫画はすごかった。『サイボーグ009』は、その抽象的思考と表現のレベルの高さに驚かされる一方、エンターテインメントとしてはわりと淡々としているのですが、『デビルマン』終盤の狂騒の凄まじさは云うまでもありません。

 そこでは人間同士が自分に内在する悪によって殺しあい、ついには滅びていくまでが圧倒的な速度感で描かれていました。

 「人間こそ悪」! これはある意味では「悪とは何か?」というテーマを極限まで突き詰めていると云ってもいいかもしれません。

 しかし、この究極的回答は同時にテーマ的な行き止まり、袋小路でもあります。

 人間のなかに救いようがない悪を見てしまった物語は、最終的には人類を滅亡させるしか解決のしようがないんですね。

 何しろ、ひとりでも人間が生きていればそこに悪があるわけですから、ひとりやふたり、悪のラスボスを倒したところでどうにもならない。

 これはきわめて本質的な、解決困難な問題であったらしく、現に永井豪は『デビルマン』を描いた後、その前へ進んでいくことはできず、『バイオレンスジャック』や『デビルマンレディー』で同じテーマをくり返すしかありませんでした。

 LDさんの見たところ、この問題は90年代中盤、ふたつの歴史的傑作を見るまで解決することがありません。

 そのふたつの作品とは何か? それは岩明均『寄生獣』であり、宮崎駿『風の谷のナウシカ』です。

 この二作品がどのようにこの問題を解決したのかは、LDさんの以下の記事を読んでもらうのが早いでしょう。

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/95ba00d703b749add8ff08fcfee0a7e9

 「人間そのものが悪である」という問題は、かように根深かったのです。

 しかし、ぼくたちは、まさに『寄生獣』や『ナウシカ』の結末のように、世界を滅ぼしたりするのではなく、灰色の日常を人間の悪とともに生きていく決断をして21世紀を迎えた。

 この時点で「世界が滅亡して終わる物語」は前世代のものになった印象がぼくにはあります。

 ですが、当然、悪がなくなったわけではありません。むしろそれはぼくたちの身近に存在するようになったとすら云える。

 そしてそのような悪に対向するため、より強いヒーローが求められます。

 しかし、残念ながらヒーローもまた、ひとつの袋小路に突入していくのです。

 LDさんが生み出した「脱英雄譚」というキーワードをご存知でしょうか?

 ぼくの理解では「英雄(ヒーロー)なくしていかに世界を救うかの物語」です。

 いままで、ヒーローたちはたったひとりで(あるいはわずか数人で)世界を背負っていました。

 当然、その責務はあまりにも重い。けれど、島村ジョーにしろ、歴代の仮面ライダーたちにしろ、決してその重荷を捨て去ろうとはしなかったのです。

 それこそはまさに日本の誇る「偉大なるヒーローたちの系譜」であると云っていいでしょう。

 70年代末期の『機動戦士ガンダム』のアムロにまで至ると、だいぶヒーローとしてシニカルになっていましたが、それでも最後の最後には自分の責任を捨て去ることはなかった。

 ところが、以前にも書いたようにこの系譜は90年代中盤、ひとつの斬新な傑作によって途絶えます。

 云うまでもない、『新世紀エヴァンゲリオン』です。

 この物語のなかで碇シンジが「ヒーローであること」を放棄したのは歴史的な「快挙」でした。

 ここにまさに「ひとりのヒーロー」にすべてを背負わせる物語は臨界に達したのです。

 そして「脱ヒーロー」の物語が求められることになる。

 しかし、ヒーローなくしていかにして世界を救うのか? この問題に解決策が見あたらないまま、ヒーローの物語はあるいは前進しあるいは暴走していきます。

 ゼロ年代には碇シンジ的な態度を否定し、「悪」であることを自ら引きうけるようなキャラクターたちが登場してきます。

 しかし、それは『DEATH NOTE』の夜神月のように邪悪の魔王と化して裁かれたり、あるいは『コードギアス』のルルーシュのように自ら魔王を装って人々の敵愾心を一心に集めたあと殺されるという「デッドエンド」に至る道でした。

 夜神月はともかく、ルルーシュはある意味では世界を救ったと云えないこともないでしょう。

 ですが、ぼくが見るところ、あれは状況をごまかしただけで根本的問題は解決していません。

 しかもその代償として自分の命を捧げてしまっています。

 まあ、これこそ究極の自己犠牲ということはできますが、そのような凄惨な自己犠牲を必要とすること自体、何かがおかしいことは間違いないでしょう。

 この「ヒーローの孤立と苦悩」の問題を、ゼロ年代において描きつづけた作家をひとり挙げろと云われたなら、ぼくは何の躊躇もなく神山健治監督の名前を挙げるでしょう。

 かれは『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』から『東のエデン』、『009 Re:Cyborg』へと続いていく作品で延々と「ヒーローの苦悩」の問題を扱っています。

 特に『東のエデン』では、主人公滝沢朗は「自分が救うべき民衆」のあまりの愚かさ、身勝手さにしだいに絶望していきます。

 それでもかれは民衆を救おうと必死の努力を続けるのですが、その姿にはどうしようもなく痛々しさがただよう。

 このテーマは次の『009』ではさらに突き詰められ、ついに「答えていただきたい! 神よ!」と神に問いただすところまで行っています。

 ここまで来ると、やはりヒーローひとりにすべてをやってもらうという物語形式はむずかしくなる。

 そこで「脱英雄」が必要とされたわけです。

 LDさんによると、この問題にひとつの解決をもたらした作品が『まおゆう魔王勇者』であり、『魔法先生ネギま!』です。

 なかんずく『まおゆう』の解決の鋭さは素晴らしいものがあった。

 この物語のなかで、「メイド姉」と名付けられたキャラクターは「勇者の苦しみを共有したい」と云いだします。

 つまり、彼女はヒーローとしての勇者ひとりにすべての責任を課すシステムの限界を悟り、それを自分でも背負いたいと云い出したのです。

 ヒーロー(個人)からクラウズ(集団)へ。

 全員が少しずつ痛みと苦しみを背負うことで勇者がいらない世界を生み出す。これは画期的な「脱英雄」の物語でした。

 まさに傑作と云っていい。しかし、ここにもやはり限界があるのです。

 ペトロニウスさんはある雑誌のなかでこう書いています。

 ただし、最後にひとつ指摘しておくと、メイド姉の解決方法には大きな問題点があります。それは、「すべての人が勇者になろうとすること」という解決方法は、基本的にエリート主義(=すべての人が英雄になる)の考え方であり、大衆化して数に埋もれた人間の醜さや個人の持つ深いルサンチマンの闇などを考えれば、そもそも、ほぼ不可能に近い選択肢だということです。それは、歴史が証明しています。なので、この次を描く作家は、作品は、どうなるのか楽しみです。

 つまりはここでも「人間悪」の問題が顔を見せるのです。

 人間そのもののなかにどうしようもなく悪が内在している以上、その人間を結集させ「直列につなげる」ことをもくろんだところで、だれかの悪意が足をひっぱって失敗に終わることは間違いない。

 「全員がヒーローになる」プロジェクトは、いかにも楽観的な、空論的な側面を持つことを否定できません。

 さて、ここでようやく『ガッチャマンクラウズ』に話はつながります。

 この作品のなかで一方の主人公とも云うべき存在感を示す爾乃美家累というキャラクターがいます。

 いままで語ってきた流れに従って語るなら、かれは「脱英雄」の物語のリーダーです。

 LORD(君主)ではなくLOAD(情報のロード)を名のる累は、この社会にヒーローは不要であると喝破し、人々の善意を集めるシステムとして「GARAX」というソーシャルネットワークサービスを生み出します。

 かれはこの仕組みによって世界そのものをアップデートすることを目指しているようです。

 そしてまさに『東のエデン』の亜東才蔵が12人の「セレソン」を選んだように、100人の「ハンドレッド」というエリートを選び出し、かれらに期待するのです。

 かれはその理屈からは当然のことに、ガッチャマンのひとりである主人公はじめに向かい、英雄としてのガッチャマンは不要である、と云い切ります。

 必要なのは人々の善意を連結し、だれもが自発的にこの世界を良くしていこうとする世界を作るためのシステムであり、ヒーローなどその障害になるものに過ぎないのだ、と。

 これはまさにメイド姉の理想であり、『サマーウォーズ』や『東のエデン』の、人々の善意が「直列につながれる」ことによって世界が救われた物語を連想させます。

 かれのこの理想の言葉はここまで長々と語ってきた戦後エンターテインメントがテン年代に至るまで脈々と伝えてきたテーマと合わせて考えると実に感慨深い。

 しかし、やはりかれの思想には『まおゆう』同様の理想主義的な一面が目立ちます。

 かれのやり方では、『東のエデン』同様、人間悪の問題をどうしても解決できないのです。

 救うべき大衆そのものが、最大の悪を抱えているという矛盾を解き明かせない。

 古来、この問題に直面したヒーローは、人類そのものが悪なのだから悪を滅すれば良いと云って世界を滅ぼしてしまうか、そうでなければ「それでも人間を信じる」と云って「未来に希望を託す」といった問題回避的な解決法しか採ることができませんでした。

 しかし、21世紀のいま、世界を滅ぼすことはできない。「未来に希望を託す」のではどこか逃げた印象がただよう。

 じっさい、『東のエデン』は後者に近い解決のされ方がなされているのですが、そのために完全な傑作になりそこねたところがあります。

 少なくともぼくにとっては『東のエデン』は、傑作ではあるのだろうけれどどこかパーフェクトではない、そんな作品です。

 とにかく、累の解決方法には難点があるということ。しかし、ガッチャマンが独力で解決してしまうというやり方にもやはり無理がある。さて、どうするのか?

 こういう文脈を踏まえてみていると、『ガッチャマンクラウズ』はいっそうおもしろいわけです。

 非常に興味深いのは、累から「ガッチャマンであることを辞めてほしい」と頼まれた主人公のはじめ(このキャラクターについてもいずれ記事にしたい)は、あっさり「いやっす」と答えるんですね。

 このひとことだけで、『ガッチャマンクラウズ』が「脱英雄譚」ではないということがわかる。おそらくはさらなる「その先」を展望しているのです。

 まさか古典的なヒーロー物語に戻るつもりでいるわけではないでしょうから。それなら、いったいこの先の展開はどうなるか?

 あと1ヶ月半が過ぎて作品が完結したあとには一笑されることを覚悟の上で、ぼくなりの展望を述べておきましょう。