きっと何者にもなれないお前たちに告げる、とプリンセス・オブ・ザ・クリスタルはいった。アニメ『輪るピングドラム』の話である。このセリフは、絶望の宣言のようにも思えるが、希望の言葉と受け取ることもできる。
「きっと何者にもなれない」ということは「ひょっとしたら何者かになれるかもしれない」ということだから。「ひょっとしたら何者かになれるかもしれないお前たちに告げる」。そう受け止めればずいぶん楽観的なひびきがあるではないか。
しかし、じっさいに「何者か」になることはいまなお、途方もなくむずかしい。ほとんどのひとがいつか「何者か」になりたいと願いながら、一生を透明なまま終えるのが現実なのだ。
そういう人生が悪いとは一概にいえないだろう。「何者か」になりたいなどというのはいかにも子供じみた夢であり、ひとは現実にはもっと地に足をつけて生きて行かなければならないのだ、と考えるのがむしろ大人の良識というものである。
しかし、そういうひとでも叶うものなら一度は「何者か」になってみたい、ひとの注目と賛嘆を浴び、光り輝いて生きてみたいと願っているものなのかもしれない。ただ生きるのではなく、注目の焦点として生きる。それで初めて自分自身の存在を心から認められる。そんなひとは少なくない。
そういう人間はある意味で不幸である。そのひとが「何者か」になりえる可能性はほとんどないのだから。あるいはまた首尾よく「何者か」になったところで幸福が約束されているわけではない。マイケル・ジャクソンを見るがいい。かれは、世界中のファンの声援と賛嘆をシャワーのように浴びていながら、少しも幸福そうには見えなかった。
「何者か」になることは、「きっと何者にもなれない」ぼくたちが思うようなバラ色の夢ではないのかもしれない。あるいはそれは苦い失望や哀しみを伴うものなのかもしれない。そんなふうにも思える。
それでもいい、というひともいるだろう。「何者でもない自分」として平凡な一生を終えるくらいなら、せめて「何者か」になって激烈な一生を閉じたい、と。それはそれで理解できる。「何者でもない」ことはあまりにも苦しい。ひとは他人の目なしには自分のりんかくすらわからないものなのだから。
「何者でもない」ぼくたちが「何者か」になろうとするとき、必須となるのが「才能」である。それは「個性」と似ているが、しかしどこか決定的に違う。個性はだれにでもあるが、才能はだれにでも平等にあるわけではないのだ。
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